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「難しい言葉を多用するのは頭の悪い人」は本当なのか

まず、この言説に対しては部分的には同意です。相手に伝わりやすい、分かりやすい言葉を選ぶという配慮ができることは、素晴らしい能力の一つだと思います。しかし、主に以下の二つの点で、僕はこの言説を断定的に唱えることに対して反対です。

1) 相対性に対する無配慮
コミュニケーションは、情報の「発信側」「受信側」の二者間で成り立つ。発信側が「難しい言葉を多用している(ように見える)」原因を、一方的に発信側に帰属すべきでない。「受信側」に原因があるケースも存在する。受信側が単に不勉強である可能性、あるいは説明を分かりやすくすることにより捨象されかねない情報に対して無自覚である可能性を省みていない。
2) 命題の成立条件に対する無配慮
「分かりやすい言葉を選ぶことができる」のは、あくまで一つの能力に過ぎない。頭が「悪い」という、定義の曖昧な絶対的否定の基準を、単に「自分にとって分かりやすいか否か」に配置しているという点で乱暴である。

本題に入る前に混乱を避けるため、命題に対するスタンスを厳密に確認しておきます。1番目の命題、及び2番目の命題(1番目の対偶)には反対、3番目の命題には部分的に同意です。

× 頭の良い人は難しい言葉を多用しない/分かりやすい説明ができる
× 難しい言葉を多用する人/説明が下手な人は頭が悪い
○ 説明が分かりやすい人は頭が良い

1. コミュニケーションの「発信側」「受信側」で扱われる言語の差異

この言説が適用されるのは例えばどんな状況か、考えてみます。

・会社の会議で、カタカナの横文字ばかりを多用する人がいる。アジェンダ、エビデンス、プライオリティ、キャパシティ etc.
・インターネットで、やたらとお堅い文章を書く人がいる
・大学教授による解説が、専門用語にあふれていて理解できない

このような事例の中には、確かに「本人は知的に見られたいがために、あえて難しい言葉、高度な言葉を乱用する」といったケースが存在するでしょう。しかし、受信側がそのように感じたからといって、必ず発信側に原因があるとは限りません。

言葉は、特定の意味をやり取りするために用いる記号です。コミュニティによって、やり取りされる言葉は変わってきます。例えば分かりやすい例は言語(language)です。基本的に米国人の間で交わされる言葉は英語、日本人の間で交わされる言葉は日本語です。

または同じ言語であっても、沖縄の人と大阪の人、東京の人の間で交わす言葉は大きく異なってきます。また、地理的に同じような場所にいても、例えばビジネスパーソンと大学教授、大人と子供では交わす言葉が異なります。

大事なのは、同じ日本人であっても、身を置く環境・業界によってやり取りに用いる言語が千差万別であるということです。したがって、この事実に配慮でき、相手の扱っている言語に合わせる能力の高い人が、分かりやすく伝える能力に長けていると言えます。

主にコミュニケーションにおいて問題が起こるのは、「扱う言語が著しく異なる二者間での会話」です。例えば、次の二つのケースをみてみます。

日本語を習いたての米国人Aさんと日本人Bさんが、日本語で会話します。日本人のBさんは簡単な言葉を選んで、ゆっくり話します。Aさんは、英語から来たカタカナ言葉を交えながら何とか会話をすることができました。
日本語を習いたての中国人Cさんと日本人のBさんが、日本語で会話します。Bさんは、英語から来たカタカナ言葉の方がCさんにとって理解しやすいと思い、カタカナ言葉を多用しましたが、Cさんは苦労しているようです。そこで、Bさんは普通に話すことにしました。すると、Cさんはスムーズに理解できました。

2番目は著しく直感に反する結果ですが、一見すると「日本語の初学者に漢字を含んだ単語は分かりづらい」と考えがちなのですが、中国の方の場合「漢字の方が理解しやすかった」というケースが存在します。

これらの例から見る通り、コミュニケーションにおける配慮の仕方は、「情報の受信側」が誰であるかによって大きく異なります。ある人にとって適切な表現は、別の人にとって適切でないといったことが普通に起こり得ます。上記の例では外国人との会話を例えにしましたが、このようなことは日本人が相手でも起こるはずです。

また、次のような事例も経験したことがあるのではないでしょうか。
(先ほどから偏見を助長しかねない具体例で恐縮ですが、シナリオとしてやむを得ずこのような表現をさせていただきます。)

アメリカに10年以上住んで帰国した、帰国子女のDさん。Dさんは日本語より英語の方が快適のようだ。しかし、Dさんが事あるごとに、発音の良い英語を会話に織り交ぜてくるので、わざと英語をひけらかしているような気がして鼻についてしまう。

Dさんが「わざと英語をひけらかしている」わけではないのは明らかです。Dさんが「表現したい意味」に相当する日本語を見つけることができなかった場合に、より快適な英語を使って表現したに過ぎないのです。

理由として、「英語の方がDさんにとってアクセスが良い」「英語の方が、自分の伝えたいことをより正確に表現できる」の2点が挙げられます。この状況で、「Dさんはあえて英語(難しい言葉)を使う → Dさんは頭が悪い」と結論づけるのが早計なのは明らかです。「Dさんは、受信側の用いる日本語という言語にまだ習熟していない」というだけです。

つまり、情報の受信側は以下の点に注意すべきです。

1) 情報の発信側にとって、受信側にとっての「分かりやすさ」を想像することは一般に困難である。「分かりやすさ」に対する過剰な配慮は、相手を意図せずナメてしまうリスクでもある。
例)相手に配慮して言葉の定義を説明したが、「そんな言葉くらい知ってるよ!」と怒られてしまった。しかしこちらは相手のボキャブラリーの範囲を完全には把握できない。

2) 情報の受信側が多様な人で構成される場合、全員に配慮したコミュニケーションをとることはできない。たまたま「自分にとって適切な言葉を選んでもらえなかった」人が、情報の発信側を一方的に「頭が悪い」と決めつけるのは早計かつ自分本位である。
例)アメリカ人・中国人の両方を相手に日本語を話す、数学の授業で中くらいの成績の生徒に合わせて授業を行うケースなど

3) 自分が主に使用している言語が、「世界共通言語」で絶対的なものであると勘違いしてはならない。同じ日本人であっても、環境や業界によって適切な言語、快適な言語が異なる。相対化の重要性。
例)大学教授は学術的な厳密さを重視した表現をする、ビジネスパーソンは「分かりやすさ」を売りにした表現をする

2. 「分かりやすく伝える力」=「頭の良し悪し」ではない

「分かりやすく説明できる人は頭が良い」という表現であれば、純粋にその人を褒める意図であって、「頭の良し悪し」を一意に規定していないので良いと思います。しかし、「本当に頭が良い人なら分かりやすい説明ができる」という言説や、この命題の対偶である「説明が下手な人は頭が悪い」という言説には反対です。なぜなら、これらは「説明が下手 → 頭が悪い」と、1で述べた相対的な基準から絶対的な否定である「悪い」に括ってしまう乱暴さを孕んでいるからです。

「話の内容を理解する」という自分の目的を達成するための機能をその人が果たしていないからといって、その人の頭が悪いと絶対的な否定を行うことは、自分本位な価値基準の設定です。「分かりやすく説明する」は機能の一つに過ぎず、頭の機能はそれだけではないので、「頭が悪い」という絶対的な否定表現は乱暴ではないでしょうか。

こんな記事に例として引き合いに出して恐縮ですが、ABC予想を証明された望月新一教授による、紅白や欅坂46に関する考察を書いたブログが話題になりました。この考察は我々の大半にとっては難解ですが、それが難しい言葉を多用しているからといって、「バカだ」と断定することが間違いなのは明らかです。「本質的に難しいもの」は難しいままなのであって、それを無理やり分かりやすくする行為というのは、一定程度の情報を捨象してしまいます。簡単な説明というのは、いつも真実ではありません。

まとめ

僕は言葉を大事に紡いで生きている人が好きです。言葉は概念です。概念は思考の幅を広げてくれます。数学も言葉の一つであり、数字(あるいはより一般に数学の記号)を使わずに数学的な思考をするのは難しい。

難しいことに果敢に取り組み、そうした勉強の副作用として普通のノリから外れてしまった人たちのことを理解できないからといって、それを「バカ」と揶揄するのは失礼だと思っています。哲学者である千葉雅也さんは、著書『勉強の哲学 来たるべきバカのために』において、「勉強とはノリが悪くなることである」「勉強とは自己破壊である」といった表現をされています。

コミュニケーションは一方向的ではなく双方向的であり、自身の持っている価値基準や言語が絶対的なものではないことに注意しながら、互いの価値基準に敬意を持って接することが肝要であると僕は思っています。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

追記1: この方が「頭の良さは一つの機能に過ぎない」点について、圧倒的に簡潔に説明されています。やっぱり、良い例え話が思いつくかどうかは大事ですね。説明がもっと上手くならなければと痛感します。

追記2: 落合陽一さんが、義憤の解像度は違えど似た問題に言及されています。





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