見出し画像

グレーゾーンに生きる #呑みながら書きました

今日は、朝からnoteを書こうとしていたんですけど、結局何も書けていませんでした。断片的に思い浮かぶネタはたくさんあるけれど、それらをどうやって繋げて一個の物語にしようっていう整理がなかなかつきませんでした。でも本来、思考というのは初めから体系立って生成してくるものではないですね。たまには思考が生成する過程と同じような形で、喋り言葉のようにアウトプットする、という表現形式が許されても良いはずです。ですので、今日はこちらの企画にお邪魔して、一筆書きという制約を加えて遊んでみます。有限化、というやつです。普段よりかなり雑な言葉ではしゃぐと思いますが、お許しください。

まず何から始めたら良いでしょうか。こういうとき、外部の「きっかけ」が必要です。「全部自分で決める」ではなくて、サイコロを振って決めるみたいに、偶然性に身を任せる。あまりに自由形式が過ぎると、動き出せない。テーマが降ってくるのを待っている、みたいなところがあります。これについて書けと言われたら、それなりのことについて書ける自信がある。けれども、「なんでもいいから自由に書いて」と言われるとできない。有限性を欲している。そういう意味では、noteが書けないという苦しみの中でSNSを徘徊し、#呑みながら書きました の本祭が今日!であることを偶然知ることができたのは、幸運でした。

私の考えることは、ほとんど常に「気分」に左右されています。例えば悲しい時は静かな音楽、ノっている時は陽気な音楽、とかあると思うのですが、哲学とか思想の本を読む時も、基本的には同じです。何か外部の出来事があって、例えば日常生活で直面した具体的な問題の「切実さ」に応じて、テーマを選びます。だからこう、「主観性を徹底的に排除した客観性」みたいな幻想を哲学に持たない方が良いと思っています。むしろ私にとって哲学は文学(物語)に近いというか、論理構造を緻密に慎重に検討して批判的に読む…というより、自身の主観的な体験を解釈する道具としての概念を宝探しみたいに拾ってくる、みたいにライトに消費してしまっている。しっくりこないものはいくら読んでもしっくりこないし、逆にスッと入ってくるものは異様な煌めきを持って、飛び込んでくる。

ただ、こういう哲学のやり方のよくない面はもちろんあると思っていて、それは「主観的に感じているに過ぎないことを、過度に抽象化して、あたかも人間普遍に成り立つ原理かのように、レトリックで演出してしまう」きらいがあるところですね。なので、「これが普遍的法則で真理!」みたいな顔をして売り出さないのが大事ではないかなと思ったりします。変に自然科学と肩を並べようとしなくても、哲学の良さってもっと別の次元にあるんだから、そのままでいれば良いのに、と思います。その点で、私は形而上学はあまり好きではないです。

私は、普段は神経生理学を大学院生として研究している身なので、自然科学と人文科学に対して取る思考のスタンスは、明確に切り分けているつもりです。自然科学の言葉で何かを語ろうとするときは、自然科学でいう「客観性」のもとに主張を吟味します。自然科学は自然の理解に役立ちますが、やはり「物質」という次元に還元するので、どうしても「言語」のような人間特有のフィクションの領域には入ってこれない。でも、私は人間である以上、フィクションの世界で生きている人間なので、私の実存とか生き方にダイレクトに関わってくるのはやっぱり人文科学であり、こういう領域でしか語れない世界の側面があると思っています。

ところで哲学でいう「思想」は、世の中を解釈するモデルの一つを提供しているに過ぎません。自然科学では、例えば「数理モデル」とか言いますけど、モデルっていうのは現実とは違いますね。物理であれば摩擦係数を無視するとか、空間的広がりを無視して質点とみなす、とか、そういう現実にありふれる複雑な要素をいったん留保して、よりシンプルな仮想世界で何が起こるのかを、思考実験的に考える道具がモデルです。

現実というのは、絶えず無限の事象が生成している解釈不可能なカオスなので、そこで現実の特定の側面だけを切り出してきて、あるいは他の側面を捨象して、上手に解釈可能な「物語」を立てる。
もちろん、自然言語に基づく思考では、数学のように公理系を立てることができないので、思考の各所で自分の「信念=無意識的な前提」が不可避的に混入することになります。哲学者の本を読んでいても、その哲学者が「〇〇教徒」だから、その教義を体得していないとしっくり来ない、みたいなこともあると思っていて、言語化可能な領域に限界があるのは仕方ないと思います。現実の他者との会話でも結構、こういうことは起こってきますよね。

抽象化思考のもう一つの注意点ですが、モデル(=おもちゃ)ばっかりで満足してると、やがて抽象化された無害な世界と向き合うばかりで、等身大の現実には恐ろしくて向き合えない、みたいな弊害があると思います。哲学的に考察する「他者」っていうのは無害ですけど、現実の「他者」っていうのは色んな意味で怖いものです。ケアとか精神病とかフェミニズムとか、概念的に考察することは重要であっても、やはり最終的には現実の他者の割り切れなさ・予測不可能性と、向き合う必要があるのはいうまでもありません。現場に立つひとは偉いし、抽象的に考えることだけが「深い思考」ではないですね。

だから、等身大の現実に向き合えない「弱さ」が、私を哲学に向かわせている —— そういう側面は、どうしてもあると思います。

もし、目の前に本当の「他者」がいたら、私はその瞬間 —— "イマココ"に集中してるだろうし、ぼーっと何かについて一人で考えるみたいなことはあまりないと思います。孤独ひとりでいると、思考が自分に向かう=自意識が強くなる。でも、目の前に他者がいれば、私は「外部の世界」=他者と共有可能な感覚入力=間主観的な世界、に意識が向いていて、思考が内側に閉じる=自閉的、になることはないわけです。

いくら抽象化された「他者」について考察された文章を読んでも、目の前にいる一人の人間のことは、今でも全然わからない。相手と折り合いが合わない時、どうお互いの欲望を探りあって、調整したら良いか。相手の考えていることをどう汲み取って、どんな言葉をかけるべきなのか。そうしたことに指針を与えてくれるのは、あらかじめ先取り的に一般法則や概念を自然言語で学ぶことではなく、無数の実践 —— 傷つけ、傷つけられることの中で、「癖」のようなものを体得することではないでしょうか。癖は、言葉ではなくて身体で与えられるもの、意識ではなくて無意識に与えられるものです。

具体の次元で試行錯誤し、正解のなさ=現実の他者の予測不可能性へと、自分を晒すこと。私は、果たしてそういう挑戦を日頃からできてるかな、っていうと甚だ疑問です。「私は哲学を勉強してるんだぞ、えへん」という感じではなくて、むしろ「いつまでも哲学をやっててすみません」という自己認識すら、私個人にはあります(これは真摯に哲学を学んでいる方への批判ではなくて、悩みの延長で哲学を消費してしまう私自身に対しての自己批判です。とはいえ正直に告白するなら、哲学偏重になることへの一般的な批判でもあります)。

哲学との向き合い方って、とっても難しいなと思います。私はいつも、いろんなもののバランスの取り方に苦労しています。最近思ったのは、自分の考え方って、よく振り返ると「進歩」じゃなくて「振動」しているんだなってことです。バランスを取ろうとして、二項対立の両極を揺れ動いている。例えば、「マッチョ」か「オタク」か、みたいな。もしかすると、国とか世界みたいなマクロ単位のイデオロギーについても、同じことが言えるかもしれません(歴史は繰り返す?)。

けれども、そうした思想の対立を目にして、「人それぞれだよね」で終わらすのは嫌ですね。二項対立のちょうど中心に立ったまま端の方を見渡して、「あいつらにはあいつらの考え方がある」じゃなくて、「あいつらの論理」を積極的に内在化し、彼・彼女らのみている世界そのものに、入り込もうとした経験があるかどうか(英語にはput yourself in someone's shoesという良い表現がありますが)。

例えば、私にとっては「強さ=競走への参加」か「弱さ=競走からのズレ」かみたいな二項対立が最近の関心でした。「ありのままの自分」では社会に馴染めない・孤立してしまうと気づいたために、社会に受容される「仮の自分=分人」を新たに生成し、異なるアイデンティティを右往左往する。弱くて脆い自分を、社会に適応するために武装して「強く」見せかける。履歴書を書くのは、いつも気持ちが悪い。こんなのは「俺」じゃなくて、自分の鎧を見せてるだけ。とはいえ、市場経済のような有限のゲームにおいて、「過剰さ」=目的や機能からはみ出してしまう人間の性質、を徹底的に排除しなくてはいけないのは、仕方がないことです。

あるいは、他者に興味があるようでいて、全然興味がない —— かもしれないことについて。繊細でガサツ、厭世的で世俗的、強くて弱い、やさしくて冷たい「わたし」。
「やさしさ」について抽象度の高い考察をしている人と実際に対面したときに感じた、そこはかとない「冷たさ」というか、現実の他者に対峙する態度への落胆のようなもの。逆に、小難しくものを考えているようには見えない人が、いちいち言語化することなく実践している「やさしさ」。

私は自分の「冷たさ」をカモフラージュするために、概念的に身につけた、「ケア」とか「包摂」とかを叫んでいるのか、とか。「善意に満ち溢れた私」に酔いしれているとか、ずる賢い自分を知っている古くからの友達とか。「俺はこんなキャラじゃない。もっとずるくて、もっと汚い —— でも、生真面目な一面もある」。アイデンティティなんて、それだけのことかもしれないです。私は、数ある顔=分人のうちの一つを、メディアという窓を通して見せているだけ。

私は昔に比べると、ずいぶんと「強く」なりましたが(過剰な自己否定をしなくなって、自分を肯定できるようになった)、もっと弱かったころは(思想的な意味で)「マッチョ」でした。その頃に私の暑苦しさやヒステリーで迷惑をかけた人たちには申し訳ないと今でも思います。
「マッチョ」というのは、どこかしらで傷ついてしまった人のことだと思っています。「マッチョ」とは自己否定の表れであり、弱さの裏返しであり、繊細さの産物です。逆に、弱さに対する「やさしさ」には、どこかに余裕が必要だと思います。ここでの余裕とは、贈与の源泉のことです。それは贈与のネットワークがあらかじめ固定化されているという点で、ある種の残酷さでもあります。

いつの間にか、こういうことばかりを考えるようになってしまいました。とはいえ、これまで「知識」として他人に認められるようなことばかり、学んできたんじゃないかっていう反省があります。それこそ、誰かの心の機微がどうなっているとか、そういうことって学問が扱うことではないし、過激な言い方をすれば「入試で問われない」。強さ偏重の社会の物差しには乗ってこない「人間の過剰さ」に、これからはもっとスポットライトを当てたい。

もちろん、レベルアップに余念がないストイックさも大事だと思います(私は一人で「ドラクエ的」メンタリティと呼んでいます)。そういう「強さ=夢」が技術革新を牽引し、人々を元気にしていくという側面はもちろんありますが、そこに「弱さ=課題」への眼差しがついてきて、初めて「ゲームを超えた変化」になるような気がしています。社会の上層だけでコロコロ変わっていくのでは、あんまり本質的な面白みがないと思います。

その流れで、最近は科学的な真理をもっと探究したいというより、世俗的な深さの方もちゃんと味わいたいと思うようになりました。科学主義を持ちつつも、「そうじゃない思考も大事だ」と思うようになったというか、なんか全体的に人生をもっとフワッと生きたくなりました。遊び心=ユーモアをもって。「無意識的な抑圧から解放されて、逸脱へ向かう」ことは、私にとって大事なテーマの一つです。

ごめんなさい、気がついたら完全に千葉雅也さんの思想にめっちゃ影響受けてるというか、受け売り的な表現が多くなってしまいました。もっと自分の芯から言葉を紡げるように精進しますが、ちょっとまだ若すぎるかもしれません。これからも思考するに留まらず、たくさん経験を積むことを意識したいと思います。引き続き、愚かな一人間の生成変化を見守ってくだされば幸いです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?