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まちづくりに必要なモノと組織論。「よそ者、若者、バカ者」は本当か。

どこぞの講演会で、したり顔の講師に言われたことがある。当時は「ハハァなるほど」思ったものだ。

「まちづくりに必要なモノが、3つあります。」

「それは、よそ者、若者、バカ者です。」


本当にそうなのかな。

地元の外の世界を知っているからこそのよそ者の活躍もある。若者だからこそ、従来の常識にとらわれない行動力もある。バカに思えるくらい思い切った行動をするものもある。それが合わさったときに、うまくいくと言う。まぁ、確かにそういうこともあるよね。ってなくらいの感覚だ。

実際には、若者が若いからと言って必ずしも「考え方も若い」かどうかは疑問である。よそ者と言っても、Uターンの地元出身者だって知見は広いし、地元のことをそれなりに知っている。本物のバカは探すのが難しい。

だから、上辺の肩書というか、「よそ者」「若者」「バカ者」に囚われるというのは違う気がしてるのね。よそ者だから良いとか、それは短絡的すぎるんじゃないかと。

3つのモノに込められた真意

僕なりの解釈で、肩書ではなく必要なスキルとして、何が必要なモノなのかを考えてみることにする。

よそ者に求められることは何だ?外の世界、例えばそれまでに住んでいた地域とか、努めていた会社とかを知っている。確かにそういう知見もスキルのひとつだと思う。それ以外にもひとつ、客観的に今の場所を見られるということもスキルじゃないかなぁ。

地元で生まれ育った人にはアタリマエのこと。それが、観光客にはとても新鮮に見える場合がたくさんある。それに気がつくことが出来るというスキルは、ビジネスの世界でも重要なポイントでもある。つまり、よそ者という言葉が表しているのは、「客観性を持った人=お客様の立場を理解できる人」と解釈することが出来るんじゃないだろうか。これは、ビジネスの世界で言うと、マーケティング能力の一部かな。

若者に求められることは何だろう?世間知らずで、過去の慣習なんてクソ喰らえとばかりに行動する。時には、過去の取り組みを真っ向から否定する。そういった無鉄砲さや、行動力を示してるのかもしれない。だけど、先に述べたように、そんなことが出来る若者ばかりじゃないだろう。というのは、実感としてあるからだ。

何かを始めるときには、過去を知りながらも変えていくには、相応のパワーがいる。周りをも巻き込むくらいの燃えるようなパワー。他の誰かを説得したり、自分で実践したり、交渉だってやってやる。そんな心意気が無ければ進まないことも多い。求められるのは「エネルギーそのもの」なんじゃないだろうか。情熱と言い換えても良い。これがひとつの「若者という言葉」の解釈だ。

もう一つ。若者は許されるし、可愛がられやすい、という特権を持っている気がしてるんだ。無茶やっても、テヘペロで済まされることも多いよなぁ。そりゃもちろん、そういう気質の若者じゃなきゃいけないだろうけど。おっちゃんになってから同じことが出来る人は稀有だろうな、とも思う。これもまた、ひとつの「若者という言葉」の解釈かもね。

そして最後。

バカ者。バカってなんだよ。今どき本物のバカに出会えることなんて、ほとんど無いと思うのね。本当のバカがバカに見えることやったって、やっぱり馬鹿って言われるだけだろう。本物のバカっていうのは、落語に出てくる与太郎みたいな人物なんだけど。見たことないでしょ。

それなりに、地元でも信頼がある人。例えば会社の経営者とか、お店をやっているとか、何かしらの実績がある人が「バカに見えること」をやるから一目を置かれるわけで。と考えると、バカ者という言葉に込められている意図は「柔軟な発想力」。そして、それを生み出す思考と解釈することが出来るんじゃないかと思う。ビジネス的に表現すれば「企画力」かな。


まとめると・・・。

よそ者=マーケティング能力

若者=行動力、ネゴシエーション能力

バカ者=企画力、柔軟性

ということ。・・・になっちゃったんだけど、どうだろう。書いているうちにこうなった。


単語の独り歩きと裏側

こうやって、ひとつずつ紐解いて解釈してみるとわかることがある。それはこうだ。「ビジネスを成功させる上で、アタリマエのことしか言っていない」

マーケティング、企画、実行。仕事している人なら、何を今更と言うくらいのことを「これが大事だ」と宣うセリフだったのか。だったら、ストレートにそう言えば良いじゃないか。

確かに語呂も良いし、具体的な肩書?を指し示している。つまり、わかりやすく受け入れられやすい。その一方で、弊害も生じている。言葉が指す人物と、求められる能力が完全一致しないってことが原因だろう。

過去の慣習から逃れられない若者はたくさんいる。過去に囚われない人は若者に多い。というふうに、イコールじゃない部分が大きいんだと思う。

じゃあ、なんでの言葉が流行ったんだろう。ひとつは、今述べたように「わかりやすい」からだろう。他にも原因があるのかな。そうだ、言い訳に使われてるのを聞いたことがある。「うちには若者がいないから」。これだ。

ブランディングやコピーライトをしている人ならわかると思うけど、言葉って独り歩きしちゃうんだよね。はじめにこのセリフを言った人がどんな意図で発言したのか知らない。というか、これ誰が言い始めたんだ?ま、どうでも良いけど。

とにかく僕は、言葉が独り歩きしたせいでおかしな解釈が広まってしまっている、と感じている。


よそ者、若者、バカ者が必要なのはまちづくりだけじゃない。

僕の解釈の通りだとすれば、まちづくりだけが当てはまるわけじゃないと思うんだ。市場をよく知っている人がいる。過去の事例に囚われない精神がある。柔軟な企画力がある。周囲を巻き込む力がある。そんなチームは、ぜひ部下に欲しいと言う経営者は多いだろう。

つまりは、どんな組織でも同じだということが言えるのかな。バラバラだけど尖った能力を持っている人が、一つの目的に向かって力を発揮すれば成功への近道だよってことだから。

となると、まとめ役がいるよなぁ。

そうか!「よそ者、若者、バカ者」に足りないのはそこだ。全体をマネジメントする人が足りてない。僕が感じていた違和感はこれか?全体のバランスを取れる人、裏でちょっと手を回しておいてくれる人。そんな感じ?

ドンドンやれ!おれが壁になってやる。責任はとるから進め!

そんなこと言える人とか。

そんな大人ってカッコいいよなぁ。

そうか、「地元のカッコいい大人」が足りてないのか。という気がしてきたぞ。憧れる大人の姿だよね。


まとめ

長らく東京に住んでいた僕は、ちょっとしたよそ者だ。割と周りからは発想がぶっ飛んでいると言われてきたから、まぁ軽くバカ者でもあろうか。30代のうちは若者とも呼ばれてきた。

そろそろ若者と言われる年齢でもないのだけれど。地元に帰ってきて長くなってきたので、もうよそ者感は薄れてきているのだけれど。頭が固くなってきていてバカ者でもなくなっているのかもしれないけれど。

解釈の通りの感覚を持ち合わせたまま、カッコいい大人に向けて踏み出していきたいな。そんな気持ちになりました。

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