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書評 しゃべれどもしゃべれども  佐藤多佳子   半人前の落語家が4人の弟子を取る。というか、彼らの目的はコミュ障の克服だった。

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これは落語の話しだ。
三つ葉という半人前の落語家に、従弟でテニスのコーチのどもりの良、黒猫こと十河というコミュ障の女、村林という関西弁の少年、湯河原という元野球選手が弟子入りする。
でも、彼らは落語を習うことが目的ではなく、自分たちの課題を克服する。
しゃべり方を習うことを目的としていたのだ。

本作は、キャラが優れている。
圧倒的な毒舌キャラの元野球選手の湯河原を中心に個性ある面々を脇に配しているところで小説は半分成功したと言ってもいい。彼らが紙面で暴れ、教師役の三つ葉が場を収集するという展開は心地よい。
そんな彼らが、落語を通して自分たちの課題を戦う物語だ。それで何かが変化したのかはわからない。確実に変わったのは少年村林くらいのものだろう。大人たちの変化はいつも牛車の如くのろい。それでも確実に変化はしている。

皆の教師役である三つ葉も実は発展途上で悩みだらけである。

師匠から、こんな小言を言われるのだった。

おまえの噺イ聞いていると、俺が下手になったみたいで嫌なんだよ。
・・・俺の噺の人物は俺がこしらえたんだ。同じ噺やっても、演者が変われば与太郎も熊五郎も変わるだろうが。おまえの熊をやんなきゃいけねぇよ・・・

師匠が好きすぎてコピーになっていた。
それが壁になって成長が止まっているんだ。

師匠の兄弟弟子には、三つ葉が好きな古典落語自体を「古臭い」と非難される。
それは誰にも理解されなくなり、先細りしていくコンテンツだというのである。

そんな大師匠に三つ葉は反論する。ここに彼の落語家魂が見てとれる。

着物を着て出て行って、自分の身体1つで江戸や明治を作り出して見せる芸じゃないですかね。


三つ葉は古典落語にプライドを持っている。若い人たちに難しいからと理解されなくても、良いものは良いという信念がある。これが落語が伝統芸能と言われるところなのかもしれない。そこには何らかの哲学がある。

テニスのコーチをしている従弟の良は、どもりをからかわれて上手く教えられない。
コーチを辞めることに決めた。
そんな彼に三つ葉が・・・。

テニスから逃げるなよ。
・・・・自分が大事だと思っているものから逃げると、絶対に後悔する。


このセリフがいい。
これは従弟へのアドバイスであり、本当は自分に対して言っているのだった。

落語のレッスンは、彼自身の落語観を変化させただけでなく、他者にも影響を及ぼすのだった。
教えることは最強のアウトプットだと言った人がいたが、まさしく、その通りだった。

さて、落語というと音である。
三味線に太鼓に笛。寄席に行くとやたらとコノ音が気になる。
落語好きなら、音と話しはセットなのである。

ドンドンドントコイ、どんどん、どんと来い。ドンドンドントコイ。
俺はこの一番太鼓の腹に響く音が好きだ。気分が豪快になる。

ときどき、落語を扱う文学を目にするが、本書のように、きちんと音を扱うことは少ないように思う。落語の世界を表現するのに、この音は効果的だ。聴覚に訴えることで落語の世界が浮き上がってくる。そういう潜在意識をくすぐる効果がある。

きちんと落語をとらえることで、本書は落語を取り込んだ作品として成功している。最後の発表会に向けて物語は尻上がりに加速度を増していくのである。ただ、ラストに黒猫と三つ葉の恋でしめくくるというのは、いかにも安っぽいオチである。落語をせっかく使っているのだから、落語でオチをつけてもらいたかった。とは言うものの本書は優れた作品である。楽しい作品であるという評価には変わりありません。

2020 7/11



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