書評 ぼく自身のノオト ヒュー・プレイサー 50年前に書かれた名著復活。その言葉の数々は共感の嵐となり読者を魅了するだろう。
50年ぶりのベストセラー本の復刻版
名著復活である。
ジャンルは自己啓発だろうか?
本書は言葉で構成されていて
その言葉は機関銃で身体を撃たれたような衝撃なのだ
それは共感であり、パワーである。
思わず「うんうん」と頷いてしまう。
説明など必要ない。
その言葉の一例を挙げることが本書の紹介となりうると確信する。
ぼくにはわかっている。ぼくの人生によこぎる、この不安とは、「こうあるべき」自分とありのままの自分との闘いなんだ。
僕たちは、このジレンマと常に戦っている。自己評価がどうしても高すぎて、現状の自慢に不満なのだ。どうして、できないと自分を卑下し責める。そこが不幸の源泉のような気がしてならない。もちろん、他者と比べて自分の現状を絶望することもあるだろう。孫正義と自分を比べても仕方ないんだよ。逆立ちしてもなれないんだよ。
そんな不安定な僕たちに確実なものとは・・・。
僕が確実につかみとることができる唯一の手ごたえとは、ぼくの行動そのものであり、行動から生まれていくるものではない。
自分たちのとった行動の中にしかそれはないというのだ。なのに、僕たちは自分を分析し他者と比較する。それがいけない。
ぼくのいけないことは、人生を生きようとするのではなくて、分析しようとしていること。
言葉についての言及もおもしろい。
ほとんどの言葉は外の世界を描写することによって発達してきたものだから、ぼくの内面に起こることを述べるには不十分
作者のこの言葉に僕は共感する。人の内面を表すには既存の言葉では十分とはいえない。だから小説やらそういうものがあるのだと思う。
そして、このジレンマ
僕はしばしば物事に対して、自分が本当にそう感じるからではなく、そう感じる「べきである」と思って応えてしまう。だから、どうしてよいのかわからなくなったり判断に迷ったりするのだ。
こうすべきだという概念に人は支配されていて、判断が迷ってしまうことが多々ある。その「べきである」は本当に正しいのか?
自分が何がしたいのかを見つけるのには、とにかく何かをやってみる以外にはないという・・・。やりだしたとたんに、自分の気持ちがはっきりと見えてくる。
このあたりは堀江さんっぽい。とにかく行動してみることが大切だ。でないと何も見えてこない。
最近、よくネットで汚い言葉を耳にする。パワハラ、セクハラ、老害・・・。
汚い言葉を言う時、ぼくは何かになったつもりでいるだけで、何かを言っているのではない。
この言葉、とても腑に落ちる。個人の問題を老人の問題にすりかえて、老人はいらないという姥捨て山的な思考の人がいるが、彼らは何かに酔っているのであり、何かを主張しているのではなくて、この本書の言葉のように何かになったつもりなのかもしれない。じゃ、何になったの?。何も変わってないんですよ。あなたは前のあなたのままなのですよ。何者にもなっていない。あなたは天下の覇者ではないのですよ。あなたはあなたなのです。
「何かを食べたい」と「セックスをしたい」の違いは?
合意が必要
これが正解ですよ。同じ行為でも相手の感情で評価は変わります。それが多様性です。
そして、これ・・・
僕が知らない人と目を合わせるのを避けるのは、彼に不愉快な思いをさせたくないからだろうか。それとも彼に見られないようにするために顔をそむけてしまうのか?。一体僕の中の何を彼に見られたくないのか?。
この言葉は感慨深い。
2021 2/23
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