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「時」について

天井から視線をすべらせるようにして「時計」に移すと、数字が4つ並んでいる。どうやら、この数字が2400になるまでが、「今日」らしい。もうすでに1000を超えている。ということは、もうすぐ半分ではないか。そんなのってあんまりだ。


さて、「今日」をどう過ごそうか。


「今日」を何度も繰り返してきた。少し前に「10000日記念日」とか言って祝していたな。


ぼくたちは、「未来」を指して「明日」などと呼ぶが、どこまでいってもプレイできるのは「今日」だけだ。次の「今日」の為に環境を整えることはできるが、実際にプレイするのは次の「今日」をプレイするぼくであり、「今日」をプレイするぼくは、永遠に「今日」を脱することはできない。

兎にも角にも、「今日」、どう生きるか、それだけである。


これは「自己啓発書」とかであるような、やる気をなんとか引き出す為のおまじないなんかではなく、実際、実感としてそのような感触がある。

人生は何十年とあり、もしかしたら100年だって続くかもねなんて言われているが、寿命がどれだけ延びたって、個人の人生はなにも変わりゃしないと思う。


「過去」なんてのは曖昧なもので、在るようで無い。映画のフィルムのようにながーく続いていて、タイムマシンに乗れば、いつかの時点に入りこめるような気がするが、そんなことはないのだろう。


「過去」はもっと平面的なもので、どんなに積み重ねようが「一瞬」と化す。写真で振り返るとなんとも立体的に思える。だけど、それはアルバムをめくっている、というよりかは、一枚のごちゃ混ぜに塗りたくられたキャンバスから、スポイトで一部を抽出するようなものだ。



ともすれば、「未来」とはキャンバスの余白のことだろう。で、筆でキャンバスを撫でている間、それが「今」だ。人生は一枚のキャンバス、「一瞬」のこと。いや、二瞬だ。「過去」の一瞬と、「今」の瞬間。

パチパチッ

瞬く閃光。そんなもん。

「儚い」

なんてものじゃない。

「イ   」である。


線香花火が消える遥か以前にぼくたちは散っている。ぼくたちが見ている星空は、何万、何億万年前の光なのだから、「時」というのは不思議としかいいようがない。


だから「全力で生きろ」とか「今を生きろ」とか言いたいわけではない。


「今」ここにいることも、「今」ここにいて、あの人も「今」ここにいて、一緒にいて、「今」ここにいる人たちが集まって、多様性の光で自分を知り、自分を生きている。たしかに、「今」生きている。


あとは、それを認識さえすれば、
真に「生きる」ことができる。

「今日」、どうやって過ごすか、「今」、なにをするか。

「時」の不思議を指先で触れる新たな方法を、探ればいいのだ。

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