トゥルクンに込められた暗号とは!? アバター ウェイ・オブ・ウォーター
13年ぶりの新作として登場した、アバター ウェイ・オブ・ウォーターに登場するトゥルクンですが、これに関わるシーンにある暗号というか情報開示が含まれていたことに気付かれたでしょうか?世界中でNo.1スタートを切ったのに、日本では3位スタートとなっていますが、なぜなのかについても考察してみたいと思います。
*ネタバレを含むので、映画を観てからご覧になることをおすすめします。
日本だけNo.1ヒットしなかった超大作
世界135か国でNo.1ヒットスタートを切ったにもかかわらず、日本では3位発進となったアバター ウェイ・オブ・ウォーター。対抗馬となる映画の魅力や長い上映時間など伸び悩む理由について様々な考察がなされていますが、少し異なる切り口から考えてみたいと思います。
この記事の題にも入っているトゥルクンという生物ですが、4作目が『The Tulkun Rider』というタイトルになっているそうなのですが、撮影が行われたニュージーランドのマオリの伝説『Whale Rider』をモデルにしているとも言われます。
それはひとまず脇に置くとしても、あの姿を見て一瞬で想像するのは「クジラ」ですね。前作では、アンオブタニウムという鉱物欲しさにオマティカヤ族の聖なる木を焼き払った地球人類(スカイピープル)ですが、今回は海に繰り出しトゥルクンを捕獲して回っています。
この捕獲のシーンにとある暗号というか情報開示が含まれているのですが、それは最後に書くとして、前作と今作で描かれる人類の姿に対する違和感を見ていきたいと思います。
1800年代の捕鯨との類似性
捕獲シーンを見た時に思い出したのが、西洋(主に米国)で1800年代にマッコウクジラを乱獲しまくり、ほとんど油だけ取って捨てていたということでした。クジラの油はローソクなど明り取りに良かったため、多くの捕鯨船が出て大西洋のクジラを激減させており、日本に開国を迫ったのも、太平洋での捕鯨基地にしたかったという面もあったと言われています。
今でこそ、捕鯨禁止という世界的な世論をIWCの中で西洋諸国がつくっていますが、そもそもマッコウクジラはじめ多くのクジラが絶滅危惧種になったのは、儲かるからといって西洋諸国が見境なしにクジラを乱獲しまくったことが原因です。
前作の、鉱物資源のためなら「ただのデカい木」など価値がないと考える発想もそうですが、「自然のものは神から与えられたから自分たちが好きにしていい」という一神教的発想でパンドラのクジラであるトゥルクンを狩りまくっている様が、本質的な意味で過去の自分たちの過ちを省みない西洋社会の思想的背景を色濃く反映しているなあと感じます。
それは、ゴールドラッシュの頃に先住民であるネイティブ・アメリカンを押しのけて土地を支配し、金を掘ることによって成り立ったアメリカン・ドリームも思い出させます。前作はどちらかというとこのアメリカでの西部開拓時代を下敷きにしているように感じられます。
日本人・海洋民族の発想
一方の、日本の伝統的な捕鯨や『くじらびと』に出てきたインドネシアのラマレラなどで行われる捕鯨というのは、西洋のそれとは全く異なります。住民皆で協力して行われる捕鯨には、「人間も自然の一部」であり、その自然の一部を生きるための糧としていただくという発想があります。
身は食用として、皮も油も骨も、髭さえも無駄にせず、使えるものはすべて使うという姿勢の背景には、自然から「いただきます」、あるいは「勿体無い」という日本語独特の言葉にもあるように、自然の全てを信仰するというアニミズムの思想が流れています。
魚でも、身、皮、内臓からえんがわのように食べにくい部分まで無駄にせず、骨であっても味噌汁の出汁にしようとする。日本人にとっては普通のことですが、西洋人は欲しい部分だけとって後は捨てるというのが多いですね。
アバターに馴染まない日本人
このように見ていくと、戦後の西洋化で崩れていった部分も多いながら、日本人はどちらかというとパンドラのナヴィのような生き方を維持してきていると言えると思います。ハワイや上で出てきたニュージーランドのマオリ、その他の環太平洋にある多くの島国、またネイティブ・アメリカンやマヤなどの先住民族は同じような文化を継承してきています。
マヤ人が、外からやってきたスペイン人を諸手を上げて受け入れた結果、大虐殺が行われ少数民族として追いやられてしまい、その勝者の考え方が広く地球上に広がっていったことで、今や地球環境は回復不可能なほどに破壊されてしまっています。
森を出ざるを得なくなったジェイク達は、海洋民族であるメトカイナ族の元に身を寄せます。慣れない海の生活に必死になって馴染もうとしているジェイク達の姿、そしてそれを受け入れ仲間として共に生きていこうとするメトカイナ族の姿は、外から来たものを受け入れ調和しながら生きていこうとする日本人の生き方そのものと言えるのではないでしょうか。
映像は比肩するものがないほど美しいので、その驚きもあって1作目はヒットしました。しかし、ストーリーとしてみた時にそれが特別なものだったかというと、そうではありませんでした。2作目のウェイ・オブ・ウォーターも、そういう意味では侵略者である地球人類と戦うパンドラの民ナヴィという構図は変わっていません。
日本人からすれば、ナヴィの生活はある意味自分たちの普段の生活と変わらないし、地球人類のやり方は自分たちの生き方と全く異なるので理解しがたい。そう見ていくと、西洋人や大陸の人達から見て斬新で新鮮に映るナヴィの生き方は日本人にとっては新鮮味が全くないと言えるのではないでしょうか。
これからの時代を創るのは
まとめると、日本人を含む環太平洋の民族のように、「人間は自然の一部」とみるアニミズム的な発想と、「人間は万物の霊長なので全て好きなようにして良い」とする一神教的発想の対立、そしてこの一神教的発想による行動が地球を危機的な状況に陥れている(実際に、今作では人類は地球を捨てパンドラに入植しようとしています)という警告を発している映画ということになるでしょう。
逆の言い方をするなら、自然とも他の人達とも調和して生きるナヴィのような生き方をずーっと昔から実践してきている日本人の知恵がこれからの時代に重要になってくるということを意味しているとも言えます。それは、地球意識である「後ろ戸の神」に畏敬の念を抱く日本人のアニミズム意識として『すずめの戸締まり』に色濃く出ています。
日本人は、外から入ってくる宗教や様々なものを広く受け入れていますが、その生き方は宗教とはまた異なったものですね。それは「道」として日本人の精神性の根幹を成していると思います。
神道が神教ではないように、華道、茶道、剣道、柔道、合気道と、その技法もさることながら、それを通じた生き方、精神性を重んじる。関わる相手だけでなく、それが行われる場にも敬意を払い、謙虚に調和を取りながら生きていく。それが「道」となっている。
アフリカの隅々まで開発の波が行き渡り、フロンティアというものが地球上になくなった時、宇宙に浮かぶ巨大な「島」である地球でどうやって生きていくのか。それを示すことができるのが日本人なのではないかと思います。
トゥルクンの暗号
さて、アバター ウェイ・オブ・ウォーターのハイライトの一つとも言えるトゥルクンの捕獲シーンですが、上で見たようにかつての西洋国家の捕鯨を思わせる描写になっています。そこに重ねてある暗号というか情報開示がなされています。
*以下、結構エグい内容を含むので、気の弱い方は読まない方が良いかもしれません。
メトカイナ族と意思疎通をし、「魂の兄妹」という関係で深くつながるトゥルクンですが、そのはぐれものであるパヤカンとジェイクの息子であるロアクが交流を持つようになっていきますね。
海の上を走るホバークラフトというか水中翼船でトゥルクンを捕獲しようとする地球人類。浮きを身体に打ち込んで無理やり浮上させ、銛を打ち込んで爆薬で停止させると、口を開けてその中に入っていきます。
そして上(脳)に向かってドリルを刺し、抽出したのがアムリタ。甘露と訳されますが、インドでは不死を与える神秘的な液体とされています。劇中でも、これが老化を抑えるのに効果があって儲かるんだという話が出てきます。
脳から抽出される若返りの薬と言えばア〇レノク〇ムです。ピザゲ〇ト事件やエプスタ〇ン島(リトル・セントジェームズ島で調べてみてください)の事件で知られるようになったもので、日本では富〇フィルムが販売していることでも知られていますが、問題はその抽出方法。
アド〇ノクロ〇は、恐怖を感じている子どもの松果体で生成されるため、子どもを虐待して絶望や死の恐怖を感じているところに目から針を刺して抽出するという正に映画に出てきたような残虐な方法なのです。
これを世界の要人、ハリウッドスターやセレブ達が使用しているとされ、若返りの作用を持っていることで知られており、映画の描写と酷似しているのです。恐らく直接的な描写はショッキングすぎるので、パンドラのトゥルクンから抽出される物という表現にしたのだろうと思われます。
いずれにしても、こういった命をもてあそぶようなことをしている人たちが世界を動かしていて、それを止めることができていない(ここ何年かでそれを大掃除するオペレーションが展開していますが)眠った状態にあるのが今の人類の意識レベルだというのをこの映画は表しています。
このままの意識状態で人類が宇宙に出ていったとしたら、他の星々に多大な迷惑をかけることになります。だからこそ、自らの行動やその元になっている意識を深く観ていくこと、そしてエイワと繋がるナヴィの人々のように他者や自然と調和を保って生きていこうとする意識に目醒めていくことが不可欠で、それが人類の種としての変容、つまりアセンションを指していると考えます。
そして、その先頭に立っているのが実は我々日本人なのだという自覚がこれから益々重要になってくるというのを感じた映画でした。
最後までお読みいただきありがとうございます!
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