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人生にはたまに深呼吸が必要。フォルケホイスコーレが教えてくれたこと

言語化しきらない良さ、自分で体験してわかることがある

滞在も半分を過ぎたころ、ここでの過ごし方や自分の心地よさがわかってきたころ、ふとこれがHyggeか!と思った瞬間があったのです。

食堂の前のテラス

テラスでお茶を飲んでいたらデンマーク人の女性が話しかけてくれて。「なんでここに来たの?」から「自分がなぜここに来たのか」の話になって、フォルケホイスコーレをつくったグルントゥヴィの話をしてくれたのです。

「なんで日本人はこんなにデンマークに来るの? 誰かがフォルケホイスコーレを宣伝してるわけではないでしょ?」
「こういう場所って必要よね、わたしずっとここに来たいと思っていて、やっと今回来ることができてとても嬉しいの」

たしかに、日本人の割合はどこの学校でも多い気がする。おそらく留学という意味で他の国より費用が安いということと、日本にはない価値観に憧れを感じるからだと思うのですが、わたしの場合は「そこで何が起きているのか知りたかった・体感したかった」という理由でした。

授業終わってから海に入って芝生でお昼寝して、のんびりおしゃべりして、たまに音楽が流れてくる。ご飯も慣れてきたらすごく美味しくて、夏だけれど暑すぎず暖かくて、時間をのんびり過ごす楽しさもわかるようになってきて。朝太陽が眩しくて起きたり、みんなで夕陽を眺めたり、こういう豊かさって素敵だなぁと。

毎日日が沈むと鳥が向かいの島に帰っていくのだけれど、それを見ていてちゃんと自分の行くべき方向をわかってるのだなぁと。そしてわたしも最初は「自分の心地よさ」や「行きたい方向」が全然わかっていなかったから、こんな時間が日本にもやっぱり欲しいなぁと改めて思ったのです。

お部屋の窓から見えた風景

そして、ふとそれまでの自分の仕事や日本のマーケティングを振り返ると、本人が体感する前に、サービスや体験の内容やメリットを全部伝えすぎてしまっているのではないかと思ったのです。実際にその場所に行って本人が感じることがすべてなのに、その範囲を狭めてしまうような。実際デンマークもこのフォルケホイスコーレも、行く前の情報はかなり少なかったけれど、だからこそ自分の体験を自分が実際に体感するまで決めずにすんだし、自分でひとつひとつ感じることができたのだなとも思うのです。

「事前に色々知らなかったことが、自分にとっては良いことだったと思う」
「フォルケホイスコーレってそれぞれの学校でたぶん全然違うし、ここで過ごした経験がわたしにとってのフォルケホイスコーレなんじゃないかな」

「情報のない場所に飛び込むのは、逆に自分の感覚を本当に信じられるかどうかを問われているよね」

誰かの掲げた目的やメリットに従うのではなく、自分に必要なものをちゃんと自分のアンテナでキャッチするということ。周りのみんなとこういう会話ができること自体が、本当に貴重なことだと思ったのです。

電車やバスで移動していてもデンマークは広告が少ないのです。もちろんデンマーク語で書いてあるので言語情報として認識しづらいということもあるけれど、それ以上に広告が少ない。なんだか日本はどこに行っても広告ばかりで、もう広告を売っている側も麻痺してきているのではないかと思うくらい。他人の評価軸がないと自分に必要なものを見極められなくなっている一方で、情報が多すぎることでノイズが増えて、より自分の声が聞こえづらくなっているのではないかと複雑な気持ちになったのです。

ここでは願ったことが叶いやすい気がする

コペンハーゲンから帰ってきた日のこと。夕陽を見ながらサウナに入って、みんなで海に飛び込んで、海に浸かったまま、水平線の目線で太陽が沈むのを眺めたことがあったのです。空の色がグラデーションになって、海まで染まって、赤と青が混ざる海の表面がキレイすぎて。自分もその中の一部として存在していて。そして、当たり前だけれど力を抜けばちゃんと身体は浮く。無理に足掻いたりせずに、ただ身体を海に任せるだけで気持ちよく浮いていられる。なんだか生きるってこういうことかもしれない、とか、結局わたし自身が緩んでるかどうかなのだなぁとか思ったのでした。

空に羽が生えたみたいだった
太陽が沈む反対側もグラデーション

22時まで海にいて、夜は焚き火をして、マシュマロやパンを焼いて。たまたま花火が上がって、たまたま流星群の日で。満月の夜にみんなで流れ星を探すなんて、こんなスペシャルな夜はあるんだろうかと思ったくらい。ここにいる人たちはみんな、ちゃんと自分の手で自分たちを楽しませる方法を知っているのだなぁと。

デンマークでは木の棒にパンを巻き付けて焼くらしい

みんなが口々に「ここでは不思議なことが起こる」と言っていて、たしかにわたしも願ったことが叶いやすい気がしたのです。理由はわからないけれど、たぶん自分がリラックスして自然のリズムを取り戻したこと、それから外からの情報が少ないから自分の中のコンパスが優先されること、だから自分が本当に願っていることに気づきやすくなるのかもしれないなと思ったのでした。

あなたがあなたでいることが、一番の自分への責任

だんだん授業も終わりに近づいてきて。先生やクラスメイトの言葉が本当に大切にしたいことばかりで、心に刻み込む毎日でした。

「起きてくることを信頼すること」
「うまくいかなかったり止まったりしてもすべては前に進んでいるよ」
「怖がることはない。すべては道の途中で起きていることだから」

「私たちはhuman doingじゃなく、human beingでしょ」
「ポテンシャルがあっても使わなければ存在していないのと同じ」
「happinessには理由があるけど、blissは理由なく感じるもの」

日本にいるとき、わたしはいつも「やるべきこと」ばかりやっていて。そして学校に来て早々、思いっきり体調不良になったわたしに先生がかけた言葉は、自分の心地よさを優先することでした。

「まずは自分の身体をケアすることが一番大切」
「あなたがあなたでいることが、一番の自分への責任だよ」

アーユルヴェーダの教えでは、五元素のはじまりは”Space”なのだけれど、たしかにまずはスペースがないと始まらないよなぁと。物理的にも心にも、日常にスペースがあれば、もっと楽しいことが入ってくるかもしれない。

それから、ちゃんと自分が望んでいることに気づいていくってとても大切。そしてその中にはすでに叶ったものもたくさんあるはずだし、ちゃんと自分の本心に従って選択し続けていけば、そこにはもっと望む現実が現れてくるのかもしれないとさえ思ったのです。

それから、私たちはもっと自分の中にエネルギーを持っていることに気づくこと。ハンドセラピーをやっていく中で、優しく触るだけでエネルギーは伝わるし、自分が癒されているからこそ相手を癒すことができることが実感としてわかったのです。

わたしが直接もらった言葉ではないけれど、フォルケで出会った日本人の友だちが初日にこんな言葉をもらったそう。

「ようこそフォルケホイスコーレへ。この学校を選んで、自分のための時間を自分でちゃんと用意した。君たちはここに来ただけでもうセレブレーションに値するよ」

本当にこの言葉の意味がすごくその通りで。わたしにとっても「大いなる深呼吸」ができた1ヶ月だったのです。身体も心も思っているよりずっと疲れていたし、たった1ヶ月だったけれど会社を辞めて来た価値はある、と心から言える気がしたのでした。

そして、次にデンマークを訪れるまでにもう少し英語も頑張ろうと思ったのでした。この学校での共通言語は英語だけれどデンマーク人の英語はわたしにとってはとても聴きづらい。そして「英語」と言っても色んな国の人が使うので、昔授業で習った英語とはかなり実態が違うということ。けれどもやっぱりヨーロッパで共にわかりあうためには英語が必要なんだということも改めてわかったのです。それぞれが領土を奪い合ってきた歴史があって、そもそも言葉は風土や生活に根差すものなのに、ラテン語や民族語のせめぎ合いがあって。けれど20世紀の戦争を経て、わたしたちは力ではなく話し合いで解決していく方法を探していかないといけないと気づいた。だから英語という言葉を通して、わたしも色々な人の考え方を少しでも知れたらいいなと思うようになったのです。

まずは自分のサステナビリティを。そこから社会を考える

と、ここまで色々書いてきたけれど、わたしはデンマークだけを称賛する気もないし、この先も日本で暮らしていきたいと思っているのです。けれど、知ること・経験するということは、自分にとって新しい選択肢が増えるということだし、新しい選択肢を手にすれば今度は選ぶことができるではないかと。

そして、ひとつ大きな気づきは、自分のサステナビリティ(持続可能性)も大切にすべきということ。最終日にスーツケースを運んでいて、突然声をかけられたのです。

「わたしは今日腰が痛いから手伝わないわ」

(個人的には、いや別にそんなこと言わんでもと思ったけれど笑)

このとき気づいたことは、デンマーク人は自分の気が乗らないことはやらないということ。たしかに他でもそんな瞬間は何度かあって。日本人は自分が面倒でも、やるべきだとか相手が望んでいたらやろうとする。たとえそれが自分の望んだことでなかったとしても。けれどその小さな小さな犠牲は、いつの間にか自分の心地よさを蝕んでいたりする。だとしたら、自分の心地よさを優先しているほうが、最終的にはみんなの幸せの歯車は噛み合ってくるんじゃないだろうか…?

まずは自分の心地よさを優先すること。それが周りのためにもなっていくということ。そしてその先に自分たちが暮らしたい社会がある。そういうふうに自分からスタートしているから、社会に対しても自分ごとになれるのかもしれないと思ったのです。

一方日本は「こういう社会が理想で、そこをめざすためにこういう人材が必要で、だからあなたたちはこういう人間であるべきです」という逆方向の圧力がある気がする。めざす社会があったとして、そこにいるわたしは幸せなんだろうか? もしかしたら、日本は見えない社会の力が強すぎて、個人の感覚が弱まってしまうのかもしれないなと思ったのです。もう少し「わたしがどうしたいか」からはじめる世界もあっていいんじゃないだろうか。

元々フォルケホイスコーレは「民衆の学校」という意味で、その理念の中に「民主主義」というものがあるのだけれど、実はわたしはここにあまり興味を持ってはいなかったのです。そしてこの学校ではそういうトピックで対話することも全くなかったのです。けれど1ヶ月の間にいつの間にか「民主主義」のヒントというか、生きることの手触り感や、一人一人が社会を変えていける実感みたいなものを自分が感じていたことに気づいたのです。

バスから見える風景がお気に入りだった

ここで過ごした時間やもらった言葉が自分のものになるには、きっとまた少し時間が必要だし、時間が経つとまた感じ方も変わっているのだろうなぁと。また来年の春別の学校にいく予定なので、そちらもどんな経験ができるか楽しみです。


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