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コミさんの脱力系戦争文学《ポロポロ》

【読書記録】
少し前に暇つぶしのために入った小さな書店でたまたま手に取ったポロポロ。

くらくら/へろへろ小説集

表題作のポロポロは谷崎潤一郎賞受賞作で、ポロポロの他には、田中小実昌独特の脱力系表現で戦争体験を語った6つの短編が収録されている。(“書いた”というよりも、まさに“語った”なのである)

一度スタートすると次々に話が枝分かれして、「ふんふん」と聞いているうちにその話の中を引き回される感じがまるで私の母の話を聞いているようで、ぐるぐる堂々巡り、実態がつかめずわかりそうでわからないのに、「なるほどなぁ」と思わせる、なんとも不思議で魅力的な文体。

そもそもポロポロって何?

と聞かれたとしても、恐らくこれを読んだ誰にも答えられないと思う。

ぼくはポロポロやらないから、ただすわっていた。ポロポロをしない者が、ポロポロのあいだにすわっていてもしょうがない。しかし、うちの教会の人たちは、赤ん坊にもポロポロをやる。赤ん坊にポロポロがわかるわけがない。また、赤ん坊がポロポロを感ずるということもあるまい。ポロポロは、感じるものでも、わかる、わからないといったものでもないのだろう。

ポロポロより

そう、ポロポロはポロポロなのだ。
(私調べによると、26頁中60ポロポロであった。)

言語化できないもの。
これは哲学なのだと思う。

ポロポロ以外の6作は、どれも田中小実昌が19歳のときに中国戦線に送られたときの軍隊生活について書かれたものなのだけれど、他の戦争物とは全く違って、どこか飄々として滑稽でほのぼのした空気を感じてしまう。

戦争物を読んで笑ったのは初めてだった。

生々しいはずの戦争体験記を気楽に読んで笑うとは何事か。
それは、これが「物語ではなかった」せいなのかもしれない。

ぼくは、大尾を物語にした。またくりかえすが、大尾は大尾だ。その大尾を物語にすると、大尾は消えてしまう。あるいは似て非なるものになる。

物語はなまやさしい相手ではない。なにかをおもいかえし、記録しようとすると、もう物語がはじまってしまう。

見たことでも聞いたことでも、一度自分の中で咀嚼すると、次に口から出るときには「物語化」してしまう。
誰しもがそういった経験を持つと思うが、それは見たまま、聞いたままのことではない。

物語化することが悪いこととは言えない。
しかし、田中小実昌は戦争語りをするにあたって徹底的に物語化を避け、何度も言っては取り消しながら、取り繕わずに自身の思ったまま残そうとした。

それを受け止めたときに感じ取る掴みどころのないあれこれが、それぞれの心に残ればそれでいいんだ、そんな気がした「ポロポロ」の掴みどころのない読書記録をここに残す。

一言で言うなら、ものすごく良かった。

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