とても静かな森だった
【昆虫エッセイ】
スマホを見る。
「もうこんな時間か」
夕飯の支度をする時間から逆算すると、そろそろここを出ないと間に合わない。
今私がいるのはどの辺りなのか。
マップを起動させるが、木々に遮られ、電波がなかなか入らない。
焦っていた。
ここは、敷地面積が20km²ある道立の自然公園。
今年の夏はすでに3回訪れている。
その度に別のルートを歩き、新しい草花や昆虫に出会った。
4回目の今日。
今年ここに来るのはこれが最後だろうと思っていた。
ここ2週間、虫たちが今年の営みを終えるのを肌で感じ、なんとも言えない気持ちになっていた。
北海道の夏が終わろうとしている。
森に足を踏み入れた瞬間から、すでにこれまでとは違った。
聴こえるのは、風に揺れる木々の音と、私の足音。
他になんの気配も感じられなかった。
時折頭上でギィィッと古木が軋む音が鳴り、ビクッと見上げる。
遠くから聞こえる子供のはしゃぐ声さえも、幻聴かのようにすぐにどこか遠くへ消え去った。
少し先をミドリヒョウモンがゆっくりと舞っている。
足早に追いかける。
少し傷んでくすんだ羽を広げたミドリヒョウモンを眺め、「今日はもう、これでいいや。」と思った。
虫を探すことをやめた。
今の季節と、森の雰囲気を楽しむことにした。
ひたすら、歩く。
立ち止まると心細くなるので、目の前の道と、木々と、葉の隙間から漏れる太陽の光だけを見て、歩いた。
先程まで足元を照らしていた木漏れ日が消え、陽が陰りはじめていることに気がついた。
すると、これまでただただ静かだった森が急に私を取り囲み、その中に閉じ込められてしまうような恐怖を感じた。
スマホを取り出す。
電波が弱い。
公園のかなり奥深くまで来てしまった。
早く帰りたい、ここから出たい。
初めてそう思った。
休むことなく歩き続けた脚は重く、一歩前に出すのも辛かった。
周りの景色を楽しむ余裕もなく、無我夢中で歩いた。
森に入って5時間。
ようやく森林を抜け、空と雲と向こう側の山々が見渡せる場所に出たとき、胸いっぱいに吸い込んだ息をほぉっと吐き出し、肩の力が抜けた。
夏が終わった。
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