《カンガルー・ノート》 彼の脛から生えるは「毛」ではなく「かいわれ大根」
【読書記録】
初めて読んだ「砂の女」で、安部公房の沼に片足を突っ込んで抜けなくなってしまった。
二作目に選んだカンガルー・ノート。
遺作に手を出してしまったことが吉と出るか凶と出るか。
読み始めて5ページ目にして、すでにある一言を言いたくてたまらなくなる。
なんのはなしですか
これは一体
なんのはなしですか
脛からかいわれ大根。
その生え始めの描写が、たまらない。
たまらなく気持ちが悪い。
毛穴という毛穴からかいわれ大根の二葉が芽吹く感覚、想像してみてください。
何度もゾワッとしてブルッと震えながら読み進めると、その後の展開も、眼を見張るほどにエキセントリック極まりなかった。
こんな本、読んだことがない。
なんて説明すればいいかわからないし、ネタバレもしたくないし、人には気軽にオススメできない作品だけど、「なんのはなしですか」と言いたい人には是非手に取ってもらいたい。
脛から生える「かいわれ大根」はなにかのメタファーなんじゃないかしら。
ぼんやりとそんなことを考えてみたけど、「ええい、面倒くさいことは今はいいや」と夢と現実を行ったり来たりしているようなストーリーに身を任せて、感じるままに読み進める。
昔から、国語は苦手ではなかったし、むしろ得意と言ってもいいくらいだったかもしれないけど、唯一嫌いだったのが、アレ。
テストで「作者の想いを述べよ」とか「作者の意図は何か」と、作者でもない人に問題を出されるアレだった。
「書いた本人でもないのに、あーたに何がわかるってぇのよ!」などと、解けない言い訳をするかのように、ひねくれた意見を言ったものだ。
しかしだ。
テストを受けるでも、正解しないと補修を受けなきゃいけないでも、自分が思っていない答えを無理やり捻り出さなきゃいけないでもない、四十路の今。
間違えたっていいから、自分なりに空想するのは自由じゃなかろうか。
誰が何と言っても、私がそうだといえば、少なくとも私の世界では正解なんだから。
読み終わり、てんでバラバラのストーリーに思われたカンガルー・ノートの輪郭がぼんやりと掴めそうなところまで近づいて来ているのを感じた。
「かいわれ大根」は、生き残ろうともがく自分、人間として最後までしがみつきたい生や意思の芽、みたいなものなのではないか、という考えが浮かぶ。
ドナルド・キーンの解説で、これを書いていた晩年の安部公房が病に冒されていた事を知ったせいもあるかもしれないけど。
賽の河原や死んだはずの母親、今にも死にそうなお年寄りと安楽死・尊厳死について。
そして、この世ともあの世ともつかない場所をさまよい続けるベッドに乗せられた、脛にかいわれ大根が生えた自分。
青々と茂っていた「かいわれ大根」は徐々に枯れゆき、枯れゆくことを願っていながらも、一方ではそれを恐れているようでもある。
いつだって「死」と隣合わせの「生」が危うく描かれている。
ストーリー性があって、ものすごく面白い小説というわけではないけれど、終始「なんのはなしを読まされているのだろうか」と手探り状態で、結末を確かめずにはいられない。
最後に、実生活でも役に立ちそうな、心に刻みたい箇所をネタバレしない範囲でピックアップすることにする。
①
②
番外編
なんのはなしですか
これは本当。
えぇ、本当ですよ、皆様。
ろくなことがおきませんからね。
大事なことなのでもう一度いいますよ。
病院で看護婦の機嫌をそこねたりしたら、ろくなことはありませんから。
さぁ、今晩はかいわれ大根をたっぷり入れたサラダでも作ろう。