エゾゼミへの片道書簡
前略
その後、いかがお過ごしでしょうか？
遠ざかる貴方の背中が忘れがたく、こうして読まれるともしれない手紙をひっそりと書いております。
わたくしのこと、まさかお忘れになったなんて仰いませんよね？
でも、それも致し方ありません。
わたくしと貴方が一緒に過ごしたのは、ほんの1時間半ほどのことでしたし、その間貴方は小さく、暗い箱の中にじっと入っておられたのですから。
あれは、本日の巳の刻でした。
郊外の森林公園へ向かおうと自宅を出た直後に、貴方の声を聴きました。
貴方にとって居心地の良さそうな樹木もない我が家周辺で、その声を聴けるとは思ってもおりませんでしたので、わたくしは足を止め、耳を澄ましました。
そして、とても近くから力強く聴こえる声の主を探しました。
「ジジジジ…」と大音量で響く先を見つめると、前方の片側2車線道路のちょうど真ん中に、貴方の姿を認めました。
広く大きな道路の上の貴方は、まるでひとひらの落葉のようにちっぽけで、今にもバラバラになってしまいそうに見えました。
すぐ傍を、車が通り過ぎていきます。
何年ものあいだ地中に眠り、ようやくこの世に這い出てきた貴方を、このまま死なせるわけにはいかない。
わたくしは、左右を確認して迷うことなくあなたのもとに駆け寄り、腹を見せて寝転がる貴方の脇を二本の指で掴み歩道へと退避しました。
貴方はとても物静かで、わたくしの指をしっかりと掴んで離しませんでしたね。
わたくしは、すぐにあなたがエゾゼミ様の殿方だと気が付きました。
先日、コエゾゼミ様にお会いしたときに、「私のように首のラインに切れ目があったら、それはコエゾゼミなのだよ。でなければエゾゼミだ。」と教えていただいたからです。
何枚かお写真を撮らせていただいたあとで、わたくしはふと先を急がなければならないことに気が付きました。
乗り継ぐ予定の森林公園行きのバスに間に合わなくなってしまいそうだったからです。
「どなたか、エゾゼミを落とされた方はいらっしゃいませんか？」
周囲を見渡しましたが、名乗り出る方はおりませんでした。
わたくしは、いよいよ困り果ててしまいました。
なにせ、この近辺には貴方のパートナーになるようなレイディも、その力強い声で鳴くのにお誂え向きの樹木も存在しそうにはありませんでしたから。
わたくしはその時、決意いたしました。
貴方をこのまま森林公園にお連れしよう、と。
森に行くときには、必ずとある紙の箱を畳んで持ち歩いております。
この箱は、生を全うし森にひっそりと落ちている昆虫たちを入れ持ち帰るための、秘密の小箱なのです。
しっかりとわたくしの指を掴んでいる貴方に振動が伝わらぬよう、鞄から箱を取り出し組み立てると、貴方の指を箱の端にひょいとかけました。
すると貴方は自らその中へと進んでいきましたね。
この街を去り、わたくしと一緒に森へと行こう、と決断してくださったのを感じました。
そうして、わたくし達は一緒に地下鉄に乗りました。
窮屈な箱の中で貴方が息苦しくでもなっていないかと、何度も覗いてしまったこと、申し訳なく思っています。
「そんなに覗くと飛んでっちゃいますよ」
地下鉄で蛾を追いかけ回した数日後に、エゾゼミをリリースしてはいけない、と慌てて箱を閉じたわたくしを、小さな声で「ヂヂヂ…」と笑っていたのは聴こえていましたよ。
地下鉄のあとに乗り換えたバスに、酔いはしませんでしたか？
貴方と出会って1時間と30分。
長いようで短い時間でございました。
森林公園に到着すると、すぐにお仲間の声が響いておりました。
貴方の耳にもきっと、この大合唱が届いていることと思い、静かに箱の蓋を開けました。
あのとき、貴方の目と耳には、何が映り聴こえていたのでしょう。
わたくしと同じく、貴方も森の香りを感じましたか？
松の木が見えなかったので、散策路から少し外れたところにある、立派なミズナラの木に貴方の前脚を引っ掛けました。
少し躊躇ったのち、静かに、ゆっくりと歩み始めた貴方を最後まで見守るのは、なんだか野暮な気がして、心のなかでお別れを言うと、わたくしはすっと背を向け元いた散策路の方へと進み、その場を後にしました。
いつものように森散策、蟲探しをして帰宅する前に、貴方がグングンと登っていったミズナラを見上げました。
そこに、貴方の姿はありませんでした。
元気にミズナラのてっぺんまで登りつめた貴方は空を飛び、その向こうにある立派なアカエゾマツの梢に降り立つと、周りの殿方に負けない声で鳴いたことでしょう。
そして、素敵なレイディに巡り会えたことでしょう。
さようなら、お元気で。
かしこ
2022年8月13日
アサミサガシムシ
あのときのエゾゼミ様
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