「社会不適合=病んでいる」という決めつけ

週5フルタイムで働くのはもう無理…、お金のために生きるとかお金のために良いと思ってない物売るとか無理…、勝ち負けとか出世とか興味ない無理…と思っている私は、おそらく世間的には社会不適合者であり、心療内科などに行けば「適応障害」などと言われ、「治療」、「矯正」の対象となる人間だと思います。しかしながら普段の私は病的で病んでいる…という感じでもなく、至って普通ですし、お腹は弱いし体力もないですが、概ね健康です。社会に適合できないからといって、イコール病んでいる、とは言えないと常々思っています。

最近読んでいたのが、『心を商品化する社会―「心のケア」の危うさを問う (新書y)』小沢 牧子 (著), 中島 浩籌 (著)という本です。この本は共感することが多々あって、面白く読めました。私は以前に精神薬なしでは働けない社会に問題があるという記事や、世の中を知るほど「社会のせい」を悟る現実 という記事を書いてきましたが、こちらの本でも似たようなことが述べられていました。社会や組織のしくみや構造に問題があるから人々が病んでいく(もちろんそうでないこともあるけど)のに、あたかもそれが個人の心の問題かのようにすり替わり、隔離・排除ののち「治療」、「矯正」の対象となる、そしてそれがビジネスになる、といったことが書かれていて、頷きながら読みました。さらにこの本では、臨床心理学界隈がカウンセリングの市場を独占しており、この臨床心理学が「適応」を前提・目的としている点を問題点として挙げていたのも印象的でした。私もそのように感じていて、カウンセリングに興味がありつつも、臨床心理学を学ぶ気にはならなかった理由がはっきりとしてきました。

私はある時に、「今の社会システムは大なり小なり人間を過剰適応に追い込むもので、病むか病まないかは紙一重だな」と感じたことがあります。教育も、医療も、カウンセリング(学校・産業カウンセラー等)も、この狂った社会システムに適応させるために、システムに何も疑問を抱かせないようにするためにあるのだと改めて思うし、あらゆるところに思想的な罠を仕掛けられていることも感じます。今仮に心療内科事業をすべて廃止して、薬を処方されることがなくなったとしたら、薬ありきで何とか維持できていた社会が崩壊するかもしれません。薬があるからなんとか働ける、という社会システムは絶対におかしいです。「うつの人には薬よりも現金を渡すのが一番の処方箋だ」といった言説を見かけることもありますが、本当にそれで回復する人もたくさんいるように思います。人々が過剰適応に追い込まれ病む背景には、お金の問題、「何かをしていなければならない」、「働かざるもの食うべからず」の労働教の思想が必ず潜んでいるものです。それプラス、同調圧力、「普通」を是とする世間の圧が内面化し、人々を追い込んでいますね。

世の中のしくみに適応するのが是で適応できないのは問題だ、という視点から抜け出せずにいると、おかしな世の中のしくみを暗に肯定することにもなり、なかなかしくみ自体にメスが入りません。世の中のしくみは私たちの考え、思想と無関係にあるものではなく、まさにそれが反映されたものだと認識すれば、私たちが世の中をどうとらえるかというのが実は世界に決定的な影響を与えているということがわかります。今は大多数の人が、暗に今の世の中のしくみを支持・肯定している(教育・洗脳の賜物)からこそ、こんな世の中になってしまっているんですよね。社会不適合者と呼ばれる人たちは、自らの生き方・あり方でもって社会にNO!を突きつけている人とも言えると思います。本当に「病んでいる」のは一体何なのでしょうか。

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