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ひきこもり歴13年から今にいたるまで⑥

不意に目がさめる。
ナツメ球のオレンジ色の光。
自分のことを思い出すのに少し時間がかかる。
自分がいつ眠ったのか記憶がない。
今、何時だろう。
カーテンの隙間から覗く向こう側を、暗闇が真っ黒な壁となって塞いでいる。
音が何一つしない。

その静けさに、まるで私のいる部屋ごと宇宙空間に投げ出されてしまったのではないかと不安になった。

とっさに誰かの名前を呼ぼうとするけれど、呼べる名前がないことに愕然とする。
そして、今ここにいる私のことを知っている人や、私の名前を呼んでくれる人が誰もいないのだということにも思い至る。

そのことの静けさが、冷たい手となって私の心臓をなでた。
怖さやさみしさというのとは違って、私が感じたのは冷たさだった。

私は地球にいる誰ともつながっていないし、私がいる部屋も地球のどの場所ともつながっていなかった。

そう、私は実際に部屋ごと宇宙に浮かんでいるのと変わりなかった。

今回は強迫性障害から鬱のような症状が強く出ていた頃のことを書いてみようと思う。

強迫性障害からくるこだわりに振り回されていたころとは打って変わって、布団の上で1日中、横になって過ごすような日々がやってきた。
食事も入浴もろくにできなかった。
食事は2日に一度とるようなこともざらにあり、入浴は2週間に一度のペースになった。

自分はどうして生きているのだろう。

頭の中にはいつもその言葉が鳴っていた。

小さな部屋の中にその答えはなく、その問いは虫歯のように私の全身を侵食していくようだった。

布団から体をひきはがすことができない。
自分が底の抜けたバケツのようで、私を動かすための動力は一滴も残らずに零れ落ちていく。
けれど、10代半ばの自分の体は食事をとることを執拗に要求してくる。
食事をとって体を維持させたとして、その先に何があるのだろう。
そんなことを考えてしまう。
考えれば考えるほど何もないような気がした。
苦しみが繰り返されるだけではないか。

それでも、お腹はすく。
それなのに、お腹はすく。
痛みや気持ち悪さにまで強まった空腹に耐えられず、家に誰もいないときか、両親が寝静まった深夜に台所へ行き、食べ物をあさった。
なんだか自分が盗みをしているような、嘘をついているような気持ちになった。
食べることが不誠実なことのように感じられてしかたなかった。
食べた後、延長された時間が、行き止まりの部屋が重力となって私の体を布団に縛り付けた。
生き延びてしまったことへの自己嫌悪に、もうこれを最後の食事にしようと無謀な誓いを何度も立てた。

布団の上で頭を空っぽにしたくて、テレビをつけっぱなしにしていたけれど、そこに映し出される外の世界があまりに遠くてやりきれなくなることもあった。
唯一安心して見ることができたのは、夜中、1日の放送が終わったあとに音楽と共に繰り返し流れ続ける天気予報の画面だけだった。
そこに人の姿は映らない。学生も働いている人も映らない。季節のニュースも流れることはなく、ただただ晴れと曇りと雨の記号だけが並んでいた。

苦しかった。
毎日、溺れているように苦しかった。
その苦しみをどうにかしたかった。
けれど、助けてとはいえなかった。
助かるとはどういうことなのかがわからなかったのだ。
助かるとは?良くなるとは?治るとは?

まずはこの鬱のような症状を治せば良いのだろうか。
病院へ行き、学校へ行き、社会に出ることが助かるということなのか。
それが良くなるということ、治るということなのか。
私は治らなくてはならない存在なのだろうか。

この苦しみを無くすことが、不登校やひきこもりを、今ここにいる自分を否定することにつながっているように思えて、どうしても助けてとは言えなかった。
社会(あるいは世界)は私を治そうとするだろうし、そんな社会から逃げたくても私を治そうとする社会しかこの世には無いように思えた。

ひきこもっている自分を良くないと考える社会、大げさに言えば自分を否定している社会に助けてと言えるだろうか。
それは助けられるのではなく、捕虜になるということのように当時の自分には感じられた。

何を甘えているのだと思う人もいるかもしれない。
人は社会で生きるしかないのだし、そのためには学校に行くか働くかすることが条件であり、誰もがそうするしかないのだと。
生きるとはそういうことなのだと。

そのような不登校やひきこもりを望ましくないものとして捉える気持ちはわかる。
きっと誰よりもわかると思う。

そのような否定的な考えは内面化されており、私は私自身に何度もその言葉を突き付けたていたのだから。

学校に行っていない、働いていないイコール悪いことで、悪いことをしている者は排除されてしまう。
そのような考えに苛まれ、自分を責めれば責めるほど、外の世界は私という存在を許してはくれない恐ろしい怪物のようなものになっていった。

ひきこもっていた当時、「夜と霧」や「アンネの日記」、「ワルシャワ・ゲットー日記」といった本を何度も読んだ。
それらの本は当時の私にとって得ることが難しかった「共感」というものを与えてくれる貴重なものであったからだ。
ナチスに迫害されるユダヤ人に自分を投影するなんて大げさだと思われるかもしれない。
しかし、ひきこもっていた11歳から24歳までの13年の間、私にとってひきこもり生活はそれほど過酷であり、外の世界とは自分の生き死にに関わるほど恐ろしい存在であったのだ。

そのような外の世界に対して助けてとは言えなかった。
そのような世界に見つからぬように、息を殺し、声を潜め、身を隠すしかできなかった。

みんなと同じように学校に行って、みんなと一緒に卒業して、みんなと同じように就職して、みんなと共に働く。
みんなと同じように遊んで、外食したり、世間で話題になっていることを話し合ったり。
みんなと同じように恋をしたり、あるいはしなかったり。
そして、みんなと同じように年を取って、みんなと同じように死んでいく。

「みんなと同じように」、それは私には永遠に叶わないものだった。
もちろん、まったく同じものなんてないということはわかっている。
同じであることが絶対的な価値ではないことも理解している。
それでも、皆が当り前のように享受しているものを、自分が得られないというのはきついものだった。
それは凍える夜に、窓越しにあたたかな室内を覗くようなものだった。
外にいる私に帰る家などなく、頼れる人もない。
中にいれてくれませんかと声をかける勇気はなかった。
怪訝な目でみられ、拒否の言葉を投げつけられたら私は寒さや飢えで死ぬよりも自分が損なわれてしまう気がした。

だから、私は自分からそのあたたかな室内から遠ざかった。
そして室内からだけでなく、人々が暮らす街からも遠く離れた。

私はありとあらゆる、人とのつながりや、社会とのつながりをなくしていった。
痛みを感じる神経を取り除くみたいに。

どうして生きているのだろう。
良くなるとはどういうことなのだろう。
助かるとはどういうことなのだろう。

答えはずっと見つからなかった。

そして考えるのにくたびれた私は、ときどき地球から遠くはなれたところに浮かんでいる部屋のなかで目をさました。

ナツメ球のオレンジ色の光。

カーテンの隙間から見える向こう側には暗闇が壁となって立ち塞がっている。

音は何一つない。

呼ぶ名前も、呼ばれる名前もない部屋。

ふと目をやると、テレビの画面は死んでいて、そこには晴れ、曇り、雨の記号すらなかった。


ひきこもり歴13年から今にいたるまで⑥

                   終わり

今回は内容が観念的になり過ぎてしまった気が……
ただ、人との関わりを断っていた当時の自分にとって自分の考えや言葉=世界のようなところがあったので、こうなってしまうのも、うべなるかなとも思ったり。
このように自分の内側にこもること、あるいは自分の考えや言葉に対する思いがある種、信仰のようなものになってしまっていたことがnoteの第1回につながっていったのだとも感じます。

今回はいつもより長い文になってしまいました。
カロリー高めだったかもしれませんが、ここまで読んでいただきありがとうございます。





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