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ひきこもりこぼれ話②

前回はひきこもっていたときの一種の山場というか、一番深い底に触れた経験のことを書いた。

noteを始めたときから、書きたいと思っていた事柄であったから、拙いなりにも形にできて少しほっとしている。
ただ、前回思いのほかエネルギーを使ったので、今回は少しのんびり行きたい気分。
ということで、今回は本筋からは外れて道草を食べる回。
そう、第二回ひきこもりこぼれ話。
こぼれ話①の続きを書こうかと思っていたのだけれど、今回はひきこもり歴13年から今に至るまで⑥を書いていたときに思いついたことを、徒然なるままに書いてみようと思う。
本を読んでいた自分のことと、空を見ていた自分のことについて。


かつて私は石が好きな子どもだった。
外出するときは、地面に綺麗な石がないか探しながら歩いた。
そんな私だから、勉強机の引き出しを開けるとき、そこにしまってあった石がゴロゴロと転がって音を立てた。

ひきこもりになって、外出できなくなった私は、石を拾うかわりに、本の中の言葉を拾うようになった。
言葉も石と似ていて、形が面白かったり、肌触りが良かったり、その言葉固有の光を持っていたりするように感じられたから。

特別熱心な読書家というわけではなかった。
読書量も多くなく、読むスピードも遅い方だった。
ゆっくりな歩幅で散策するみたいに本を読んだ。
たまに石英みたいに光をはねかえす言葉を見つけたら嬉しくなって大事にポケットにしまった。
そして、ときおりポケットから言葉たちを取り出して陽の光に透かすみたいに眺めた。

前回に少し書いた第二次世界大戦下のユダヤ人が経験したことに関する本以外では、哲学書を好んで読んでいた。
ショーペンハウアー、ニーチェ、プラトン、インド哲学のウパニシャッド。
必死で読んだ。
あるいは祈るように読んだ。

それらの本の中にある言葉は、目に映る苦しみに満ちた世界を透かしてベールのようなものに変えてくれるような気がした。

自分が見ている世界なんてまやかしで、吹けば飛ぶようなものだと思いたかった。
大事なものはベールの向こうにある揺るがないもの(あるいは誰にも気づかれていない真理)で、あってほしかった。
本当の価値は今私が苦しんでいる世界とは別のところにある、別の何かなのだと信じたかった。

また、哲学者と言われる人たちは、世間から距離を置いていて、孤独な身の上であることが多く、そこがひきこもりの自分と通じるようなところがあるように感じた。
それらの言葉が生まれる背景にある孤独と、ひきこもっている自分をとりまく孤独に共通するものがあるようなきがして、励まされるようにも感じた。

前回にも書いたが、当時の私が共感という感覚を得られる手段は読書しかなかった。
もちろん、彼らの言っていることは難しくて、何度読んでもわからない部分の方が多かったけれど。

私の推測でしかないのだが、ひきこもっている人たちの中で哲学に惹かれていく人は多いのではないだろうか。

彼らは人とのつながり、社会とのつながりを失って、どこにも帰属できず、社会の中で良しとされる価値観の中では何も得られず、星が1つずつ消えていき、暗さを増していくような自分の世界のなかで、自分を照らしてくれる光源を探すみたいに、哲学という自分の世界を組み直してくれるようなものに近づいていくのではと思う。

人はどうして生きるのか、何のために生きるのか。
社会で良しとされる価値観からはじき出され、重力をなくし、方向をなくし、宙ぶらりんになった自分という存在にどのような意味を与えられるのか。

それは本当に孤独な闘いだった。
あんなに必死に本を読むなんてなかなかできないなと、今となっては思う。

本を読み、思考することで気分が高揚し、世界はベールのように陽の光に透けて風に柔らかに舞った。その間だけは自分の苦しみには意味があるのだと感じることが出来た。しかし、それはいつもつかの間で、ベールはまた重たい壁になった。

そして、本を読む集中力が切れると私は空を見た。
ひきこもりだったころの私は本当によく空を見ていた。
人が来るかもしれない日中は窓辺に椅子を置いて、夜は庭に出て空を見上げた。

空を頻繁に見るようになったきっかけは、誰もいない日に、一人で怖くなるくらいの青い空を見たからだった。
その日、昼間に目をさましたとき、街は不思議なくらいしんとしていて、窓の向こうにある空の色がやけに濃かった。
手を伸ばしたら、指先が触れてしまうのではないかと、こわくなるくらいに。
街よりも、私よりも、空のほうが在る、そんな気がした。
実体を持っているのはこの街でも私でもなくて、空なのではないか。
この街も私も空の影のようなものなのかもしれない。
10代の私はそのように感じ、また、本当にそうであればいいのにと願いもした。

私が住んでいたところは田舎で、庭に出て寝ころんだら視界は空でいっぱいになった。
視界いっぱいの空をみていると、次第に自分の体が透けて、地面も抜けてなくなって、世界は空だけになっていくように感じられた。
空以外のものが純粋な観念のようにおもえる瞬間があった。
そのときだけ、心の痛みを忘れることができた。

私は消えたかった。
自分を消すこと、そのことに必死だった。

当時の私はモルヒネを打つみたいに空を見ていた。
そう、空はモルヒネだった。

私は必死で空を見上げていた。
痛みを消すために。
自分を消すために。

当時の自分にとって自分とは痛みでしかなかったから。

今、ふりかえると当時の状況は本当に袋小路だったなと思う。
外(社会)に出ることがどうしてもできなかったから自分の内側に潜るしか進んでいける方向がなかった。
そのことが正しかったかどうかはわからない。
人との関わりが途切れることのリスクは小さくはない。
ただ、潜れるところまで潜りきったという手応えが24歳で外に出るときや、出た後にも自分を後押ししてくれたように思う。
このことはまたの機会に書けたらと考えている。


人はどうして生きるのか。


本当に難しいよねとその当時の自分に相づちをうつくらいしかできない今の私だけれど、今ここにいる私だから見つけられる石があるのかもしれない。
この石よくない?なんていって当時の自分とお互いに少しはしゃげたらきっと嬉しいだろうな、なんて想像してみたり。

この世界にはどんな石があるのだろう。

そう思うと、子どもの頃の気持ちが蘇ってくる。

ついつい良い石が転がっていないかとキョロキョロしてしまう。


今日も、自分のペースで歩きながら、足元の石を探して。

今回の道草はここまで。

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