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山にはいる

神戸には六甲山という人気の山がある。
江戸時代には多くの都市に近い山ははげ山だったらしく、
六甲山も例外ではない。

どうしても現代は自然を破壊していて、
昔は森林が豊かだったというイメージがあるけれど、
奈良時代にはすでに森林伐採を禁じる法律ができたというから
一概に日本全国どこもかしこも自然豊かだったとは言えないことが分かる。

六甲山に話を戻すと、その時の写真や、
植林をしたときの写真が残っているのを見てから、
今の六甲山の山並みを見上げると、
よくここまで豊かな山になったものだと思う。
週末には多くの人が山を登り、
山上の観光施設で楽しむ姿が見られる。

別に薪をとったり、薪割をしたり、山菜を摘んだりといった山が隣り合わせにある子ども時代を過ごしたわけではないので、自分でも不思議だが、
私にとって山は「登る場所」というよりも、
「くらす場所」という感覚で生きてきた。

四季の移ろいに沿った生活をしていると、
折に触れて山が私に呼び掛けてくるように感じる。
春にはきいちご、山菜、野草
夏にはやまもも、びわ
秋にはぎんなん、くり、どんぐり、むかご、きのこ
冬にはふゆいちご
行ってみるとたいてい恵みをいただけるので嬉しいやりとりだ。

今のように山を借りていない頃から、
山に出かけてはどんな場所にどんな植物があって、
その中に食べられそうな植物があるのかと歩き回った。
出かけるたびに、シイやカシ、クヌギやアベマキ、クスノキ…
のお気に入りの巨木を見つけては胴回りに手をまわしてハグしてきた。
2回3回と同じ場所に出かけ、それぞれの植物がまだあるか、
増えているか減っているかと記録をとるでもなく見て回った。

サバイバルな経験は0であるにもかかわらず、
そして、山で暮らすわけでもないのに、山に入ると
魚がいる川があるなぁ。あの大きさは食べてもいいな。
この見晴らしのいい場所だと家を作ったら気持ちよさそうだな。
水が湧き出ている場所はあるかな。
食べられる野草がどこに群生しているかな。
などとついつい考えてしまうのです。

今は里山をお借りしているので、
自分の生活を豊かにしてくれる野草や樹木を応援して増やしたり、
生き物が心地よく生きられるよう、
外から飛んできたゴミをとったり、竹林を整えたりと、
山とかかわりながらくらしています。

3年前の村の草刈りの日。
90を超えるおじいさんが
「昔は周りの山でたくさんの松茸がとれたんだよ」
と話してくれました。

聞いてからすぐに山に登って、
道なき道をすすんで赤松の木が山のどこにあるかを見つけに行った。
そして、たっぷり溜まった落ち葉を掃いて
「松茸出てきてね~」と声をかけてきました。

たとえ1年、2年では出てこなくても、
5年、10年して、また新しい赤松が生えて、
環境が変わったらまた松茸も出てきてくれるかなと思っています。

今までもそうやってほしい野草の名前を呼ぶと、
その野草が生えてくるといった経験をしました。
きっと種が眠っていたり、鳥や虫が運んできたり、
種が風でとんできたりして生えてきたのでしょう。
流石に松茸は生えてこないか(笑)
自分の生きているころに出なくても、
100年後、200年後、赤松も世代交代していて、
いろいろな自然の巡りや人とのやりとりを経て、
そのころに生えてきたらそれもまたおもしろいかと思っています。

山がいつまでも、人を含む動物にとっても、植物にとっても、
それ以外の生き物にとっても、鉱物にとっても、
豊かな場所でありますように願っています。

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