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天照大神は弥勒菩薩だった! 謎の渡来人秦氏と光明神ミトラの暗号/古銀剛・総力特集

日本人ならだれもが知っているあの天照大神(あまてらすおおみかみ)の天岩屋(あまのいわや)神話が、じつは、仏教伝来後に成立したものだった!?
成立1300年を迎える『日本書紀』に残された謎の言葉を手がかりとして、日本史上最大のタブーを暴き、秘められた弥勒=メシア信仰の系譜を浮き彫りにする!

文=古銀 剛

1300年前に成立した日本初の正史

 令和2年(2020)は、奈良時代に『日本書紀』が完成してから、ちょうど1300年後にあたる。養老4年(720)の『日本書紀』誕生から1300年というメモリアル・イヤーである。

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今からちょうど1300年前に完成した『日本書紀』の冒頭(第1巻「神代上」)。慶長年間(1596〜1615年)書写の内閣文庫本より(国立公文書館蔵)。

 さて、『日本書紀』とはどんな書物なのか。
 天皇の命令を受けて制作された歴史書のことを「正史(せいし)」と呼ぶ。その正史の最初に位置づけられているのが『日本書紀』だ。
 似たような内容をもつ『古事記』のほうがやや成立年が早いが(712年)、『古事記』は皇室の私的な書物という性格が濃く、正史という扱いは受けていない。

『日本書紀』は飛鳥時代の天武天皇10年(681)に天武天皇の命令によって編纂事業が開始された。神話に淵源する天皇家の歴史と国家の成り立ちを公式に記録するためである。紆余曲折をへながらおよそ40年後に完成にいたり、天武の孫にあたる女帝・元正天皇に献上された。
 全部で30巻からなっているが、第1・2巻は「神代(じんだい)」の叙述にあてられ、天地開闢から初代神武天皇の誕生にいたる「神話」がまとめられている。第3巻以降には、神武天皇から7世紀末の第41代持統天皇までの事跡が、編年体によって細かく記述されている。

飛鳥の宮殿に設けられた「御窟殿」とは?

『日本書紀』は幸いなことにほぼ完全なかたちで現代にまで伝えられていて、日本の神話と古代史を知るうえで第一級の文献・史料でありつづけている。日本でもっとも重要な文献と評しても過言ではない。

 とはいえ、今から1300年も昔に書かれたものなので、今となっては語義や文意が判然とせず、解釈をめぐって異論が噴出している箇所も少なくない。いや、書いた本人すらよくわかっていなかったのではないだろうか、と思しきところもある。要するに、大古典ではあるが、どう解釈していいかわからないところがいくつもあるのだ。
 そうした『日本書紀』の「謎ワード」のなかで、筆者がかねて注目してきたものに、御窟殿(みむろのとの)、御窟院(みむろのいん)がある。
『日本書紀』によれば、天武天皇の時代、都は飛鳥にあり、その宮殿は飛鳥の浄御原宮(きよみはらのみや)と呼ばれたが、そこには「御窟殿」あるいは「御窟院」と呼ばれる建物もしくは部屋と推測されるものがあった。

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飛鳥の浄御原宮跡(奈良県高市郡明日香村岡)。7世紀後半、天武天皇は飛鳥に新たな宮殿を造営した。

 原文を紹介してみよう。朱鳥元年(686)正月18日条の記事である。

「是の日に、御窟殿の前に御して、倡優等に禄賜ふこと差有り。亦、歌人等に袍袴を賜ふ」
 現代語に訳せば、「この日、天皇は御窟殿の前にお出ましになり、俳優たちに褒美を、歌人たちに衣をたまわった」となる。
 同じ年の7月28日条の記事には「宮中の御窟院」ということばが出てくるが、御窟院も御窟殿と同じ建物をさしていると考えられている。

 さて、御窟殿とはなにか。どんな建物なのか。なんのために利用された空間なのか。

 これについては諸説がとなえられていて、「天皇の住まい」「神を祀っている宮殿」「地中に掘られた穴倉」などと説明するものもあれば、「どんな建物か未詳」と片づけてしまう解説書も多い。端的にいえば、御窟殿とは「宮殿のなかに存在した謎の建造物」ということになろう。

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内閣文庫本『日本書紀』より、朱鳥(しゅちょう)元年(686)正月18日条の箇所。右から2行目に「御窟殿(みむろのとの)」の文字がみえる。

 そうしたなか、江戸時代の国学者・谷川士清(たにかわことすが)が著した『日本書紀』の古典的な注釈書『日本書紀通証』には、「御窟殿とは天岩屋の遺象(いしょう)ではないか」という注目すべき指摘がある。

 これはどういうことか。嚙み砕いていえば、つぎのようになろうか。

「御窟殿とは、天照大神が籠もった天上界の天岩屋をイメージした神殿だったのではないか。そこでは俳優たちによって天岩屋神話が演じられていたのではないか。いや、宗教的な秘儀が行われていたのではないか。そこには天照大神が祀られていたのではないか」

 たしかに「窟」という漢字には「洞穴」「岩屋」という意味があるし、とくに『日本書紀』では、天岩屋は正確には「天石窟」と表記されている。そして「御窟殿=天岩屋」ととらえると、くだんの『日本書紀』の記事もすんなり意味が通る。想像するに、御窟殿には天岩屋に擬せられる小屋、あるいは土を塗り固めて作った室(むろ)のようなものがもうけられていて、天武天皇はそこで神話劇を演じた役者たちに褒美を与えたのだろう、ということになるからである。

 では、もしほんとうに「御窟殿=天岩屋」だったとすると、そのことはいったい何を意味するのか。そもそも、天岩屋神話とはどんな由来をもっているのだろうか。

 そこで、このような問題を追究してゆくと、筆者は今回、衝撃的な事実にぶち当たったのである。『日本書紀』成立から1300年の歳月をへてはじめて明かされる、天照大神をめぐる驚愕の真実に――。

記紀神話のハイライト「天岩屋神話」

 素戔嗚尊(すさのおのみこと)のあまりの暴虐にショックを受けた天照大神は、天岩屋(あまのいわや)に入り、戸を閉じて中に籠もった。すると高天原(たかまのはら)も下界の葦原中国(あしはらのなかつくに)もすっかり暗くなり、さまざまな災いが起こりはじめた。
 そこで八百万の神は天安河原(あまのやすかわら)に集まって相談し、天照大神を招き出すべく祭儀を行うこととした。そして岩屋の戸の前で天鈿女命(あめのうずめのみこと)が踊り乱れると、服がはだけて胸が露わとなり、一同はどっと笑う。そんな笑い声に誘われた天照大神がそっと戸を開くと、待ち受けていた神々に腕をつかまれて、まんまと外へ引き出された。こうして、世界に明るさが取り戻された――。

 ご存じ、『古事記』『日本書紀』に収められた「天岩屋神話」のあらましである。
 天岩屋神話は、天孫降臨神話とならび、記紀神話におけるハイライトともいえる非常に重要な箇所だ。太陽の神格化でもある天照大神の神裔としての天皇による日本統治の起源説話を形成し、大嘗祭や鎮魂祭などの基礎的な王権儀礼のモチーフになっている。とくに、天岩屋から天照大神が輝きを放って現れ出る場面は、日本神話のシンボルのようなものだろう。

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天照大神が天岩屋から姿を現すと、世界は再び明るく照らし出された。歌川国貞(三代豊国)「岩戸神楽ノ起顕」(江戸時代)より。

『風土記』に天岩屋神話が書かれていない理由

 それほどに重要性をもつということであるならば、天岩屋神話は、天皇家(大王[おおきみ]家)において、記紀が編纂された時代(7世紀末から8世紀初頭)からみて、はるか遠い昔から語り継がれてきた悠遠な神語(かむがたり)なのだろう――。そう思いたいところだが、よく調べてみると、これがなかなか難しいのだ。

 たとえば、日本各地の古伝承を採録した『風土記』をみると、天岩屋神話はもちろんのこと、これにいささかでも似たタイプの神話は、いっさい見出すことができない。
『風土記』は和銅6年(713)5月2日の元明天皇の詔によって各地で編述が開始されたもので、その詔は、地名の由来、地域の産物、土地の状態、そして「古老の相伝ふる旧聞・異事」すなわち古伝承を記してまとめることを命じている。したがって、天岩屋神話がもし古くから語り継がれていたものであるならば、当然『風土記』のどこかに書き記されていてしかるべきなのだが、現存する『風土記』はこの物語を完全に無視しているのだ。

 このことの奇異さは、王権神話のもうひとつの核である天孫降臨神話の場合と比べると、いっそうはっきりする。
「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原から高千穂に天降った」という天孫降臨神話は、断片的ながらも『日向国風土記』逸文や『薩摩国風土記』逸文に見出すことができる。
 また、瓊瓊杵尊は登場しないものの、天神(あまつかみ)が地上に天降ったという説話は――つまり、素朴な降臨神話は――、これもきわめて断片的ながら、『常陸国風土記』(香島天大神が降臨)、『出雲国風土記』(天乃夫比命)、『山城国風土記』逸文(賀茂建角身命)、『筑前国風土記』逸文(日桙、宗像大神)、『豊前国風土記』逸文(天孫)といった、複数の『風土記』に見出すことができる。

 もちろん、『風土記』に関しては、「天平5年(733)勘造」という奥書をもつ『出雲国風土記』以外は成立年代が不明確、五風土記(『常陸国風土記』『播磨国風土記』『出雲国風土記』『豊後国風土記』『肥前国風土記』)以外は断片的な文章(逸文)が伝えられているにすぎないといった弱点があるため、安易に史料として利用できず、そもそも『風土記』所収の天孫・天神降臨神話が記紀神話の影響を受けて成立したものである可能性も捨てきれない。
 だが、それでもこれだけ数が多いということは、天孫降臨神話のモチーフが古いルーツをもっていることをおのずと予想させる。

 逆にいえば、もし天岩屋神話が古いルーツをもつならば、『風土記』のどこかにその片鱗だけでも認められなければ、おかしいのではないだろうか。
 それとも、天岩戸神話はあくまで天皇家占有の神話であり、『風土記』というローカルな地誌にはわざわざ採録する必要がなかった、ということなのだろうか。

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『豊後国風土記』の写本(国会図書館蔵)。奈良時代に全国で編まれた『風土記』はローカルな神話・伝説の宝庫である。

天岩屋神話の成立は新しいのではないか?

 ところが、その天岩屋神話の原典であり、天皇家の家伝であるともいえる『日本書紀』や『古事記』をひもといてみても、天岩屋神話の頼りなさが明らかとなってくる。
 周知のように、『日本書紀』の神代巻は、本文のほかに「一書」と称される異伝を併記するというスタイルをとっている。これは、『日本書紀』の編纂者が編纂にあたって複数の原資料を参照していたこと、いい換えれば、『日本書紀』編纂時においては神話部分に関して複数の原資料が存在していたことを明示している。
 そして天岩屋神話を記す箇所(神代巻上・第7段)についてみると、本文のほかに、3つの「一書」が記載されていることが確認できる。つまり、『日本書紀』には天岩屋神話についてあわせて4通りの所伝が記されていることになる。そして、これに「一書」の存在しない『古事記』の天岩屋神話も加えると、記紀には、天岩屋神話に関して5通りの所伝が存在することになる。

 このことは、一見すると、この神話が古くから存在し、長く語り継がれてきた結果、いくつもバリエーションが生じてしまったことを示しているようにもみえる。
 だが、この5通りの所伝をよく吟味してみると、必ずしもそうとはいい切れないことがわかってくる。

 まず5つの所伝のうち、『日本書紀』の「第一の一書」を除いた4つは、いずれも「①素戔嗚尊の横暴に慄いて天照大神が岩屋に入り、②世界が暗闇に包まれるが、③神々の働きかけによって天照大神は岩屋の外に誘い出される」という根幹的な部分は共通している。
『日本書紀』の「第一の一書」は③の描写が不完全だが、①②はそろっているので、原資料には③もあったが、編纂者が引用をする際にたんに省略したにすぎないのかもしれない。この他には、登場する神々の神名表記やその役割に若干の異同がみられるものの、これら5つの所伝は、内容的にはたいした相違がみられない。
 一方で、天孫降臨神話についてみると、『日本書紀』は本文のほかに7つもの「一書」を記し、しかも長いものが多く、天岩屋神話に比すると、内容的な相違も著しい。

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『日本書紀』神代巻上第1段の「一書(あるふみ)」の箇所。『日本書紀』は、『古事記』と違って、「一書」と呼ばれるさまざまな異伝が随所に挿入されている点が特徴である(1599年刊行の古活字版/国立国会図書館蔵)。

 つまり、天岩屋神話は、記紀神話において、異伝数が少なく、かつ異伝間に内容の相違が少ないというふたつの特徴をそなえていることになる。
 このことは何を意味するのか。
 古代神話研究や比較神話学の分野で大きな業績を残した神話学者の三品彰英(みしなしょうえい)は、こうした特徴は「この物語の成立が時代的に新しく、したがってそれが伝承されてきた時間的過程が短かった」ことを示唆している、とかつて指摘した(「建国神話の諸問題」)。
 つまり、天岩屋神話は、天孫降臨神話などとは違って、比較的新しい年代に成立した若い神話ではないか、ということである。

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天孫降臨の場面。天照大神の孫・瓊瓊杵尊(左上中央)は神々を従えて高天原から天降だった。『日本開闢由来記』より。

天岩屋神話はだれが、いつ、何のために作ったか

 たしかに、天岩屋神話そのものの歴史が浅いという前提にたてば、『風土記』にこの物語のモチーフが見出せないという事実を合理的に説明することも可能になる。
「天岩屋の物語はごく最近になって形成された神話なので、つまり『古老の相伝ふる旧聞・異事』ではなかったので、『風土記』に採録する必要性がなかった」ということになるからだ。
 もちろん、現在、日本の各地には「天岩屋」と称される巨岩が神社や古墳の近隣などに存在し、それぞれが天岩屋神話のオリジンであることを主張していることをわれわれは知っている。だが、それをそのまま真実として受け入れている人は、めったにいないだろう。そもそも神話の記述にもとづけば、天岩屋は、天空のはるか遠く、高天原に所在するはずであり、それがこの地上に存すること自体が大きな矛盾を生む。
 そうなると、次に浮かんでくるのは、こんな疑問だろう。
「日本神話の中核を占めながら成立年代が比較的新しい天岩屋神話は、いつごろ、どのようにして形成されたのか?」あるいは、こうまとめることもできよう。「天岩屋神話は、いつ、だれが、なぜ作ったのか?」
 実は、この謎解きの鍵こそ、「岩屋」そのものにあったのだ!

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天照大神は日本神話の主役であり、天岩屋神話は日本神話のハイライトである(やよい文庫蔵)。

岩屋・岩窟が目立つ九州北部の聖地

 天岩屋神話の原郷は、いったいどこなのだろうか。
「天岩屋」というと、九州宮崎県の高千穂町に鎮座する天岩戸神社のことを思い浮かべる人も多いかもしれない。この神社のそばにたつ断崖には「天岩戸」と呼ばれる洞窟(窪地)があり、洞窟そのものが神社のご神体となっている。
 また社域を流れる清流沿いの河原には、八百万の神が集まって相談した「天安河原」に擬せられる一画もある。天孫降臨の地と伝えられる高千穂の地にあることもあって、天岩戸神社とその一帯は日本神話のオリジンのような扱いを受けている。
 だが、中世以前にさかのぼる史料にこの天岩戸神社について言及するものはない。この神社もまた全国にあまた分布する「天岩屋伝承地」のひとつにすぎないのだ。

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