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禅問答させられてる?

こんばんにゃ!!
もう挨拶がおっさんです。


僕ね禅の勉強をしています。
でね、公案ってあるんです。
いわゆる、「禅問答」ってやつ、、、

あれね、意味が分からないんです。
和尚さんに聞いても「意味が分からないものです。そういうものです。」と言われました。(親切にいろんなお話をして頂きましたよ。)

ここで公案の具体的なお話はしませんが、、、
ってゆーか、僕にはできません。笑

で、公案、禅問答には、「答えは無い」と思うんです。
無いというか、「答えは無数にある」というか、、、
はたまた、昨日と今日で「答えが変わる」こともあるかも、、、

「答えのない問題に真剣に向き合う。」

これに意味があって、この作業を通じて、成長する。
そして覚りの境地を目指す。

覚りは僕には分かりません。
きっと何千年も言われてるからあるんでしょう。

とにかく、成長するために、「答えのない問題に真剣に向き合う。」

これが大事な気がするんです。
で、この作業が、苦しい、、、んです。きっと。

仕事のこと、友達のこと、家族のこと、人間関係で「答えのない問題に真剣に向き合う。」
そういうことありませんか?
辛いですよね。
それで成長するんです。きっと

で、最近思うのが、
特にこの、コロナ禍で、

「答えのない問題に真剣に向き合う。」

ってこと多くないですか?
マスクをすることが大切だ!! となれば、マスク警察が出てきたり、、、
コロナでいじめや差別が起こったり、、、
誰も悪くないのに、いがみ合うことも増えているように思います。

オリンピックをどうするれば1番良いか?

きっと「これだ」という答えなんかありません。
それでも考えざるを得ない。

現代人って、実生活の中で禅問答をさせられてるんじゃないかと思うんです。
正直、つらいですよね。
理不尽なことも多いですよね。
でもね、きっと、これって成長するためにあるんだと思うんです。

だから、「答え」は求めなくてもいいんじゃないでしょうか。

そんなこと言っても、オリンピックを開催するか、しないか、、、
答えは出さなくてはなりませんよね。

答えを出すけど、間違ってもいいんだと思うんです。
どう答えを出しても、間違いだという人はいますし、
オリンピックをやるなら、アスリートには正解かも知れないけど、他の人には不正解かも知れない。
また逆も然り、、、
オリンピックを例えに出しましたが、他にもいろんなことがあると思います。

真剣に考え抜く、そして話し合う。
そしてまた考えて、考えて、考え抜いて答えを出す。

答えに重きを置くより、そこまでの過程、プロセスに重きを置く

そしたら、答えが間違っても、お互い信頼できれば、許せるのかも知れない。

そこには、思いやりは必ず必要だと思います。
なんかね、最近、ホント

生きていくって禅問答をさせられてるよな

って思うことが多くて、、、
noteに書き留めておきました。

最後まで読んで頂きありがとうございます。

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