生きづらさの中の灯台『川っぺりムコリッタ』読書感想文
生きづらいって、なんだろう。そこから這い上がって自由に息をする方法が、あるのだろうか。
高校生の時に母親に捨てられ、死なないための生活を繰り返していたら受刑者となっていた山田。刑務所を出た後も前科者として、「どうせ簡単には死ねないのだから、死を目の当たりにしながら生を感じるようなぎりぎりの生活を送りたい」と考えていた。
川を求めて北陸の工場勤務をし、紹介された川辺のおんぼろアパートで初めての一人暮らしを始めるが、落ち着いた一人の空間を持てたと思ったのも束の間、彼を待ち受けていたのは隣人の島田が風呂やご飯を目当てに勝手に上がり込んでくる生活だった。
壁の薄い「ハイツムコリッタ」には、無表情の大家の南さん、仕事に就かない隣人の島田のほかに、くたびれたスーツを着て親子で墓石を売る溝口が住んでいる。みんな、それぞれに社会から切り離されたような貧しさ、孤独、不自由さを抱えていることがわかる。
豊かで生きやすそうな人が、この作品の中にはどこにもいない。みんなきっと何かを抱えて生きているんだろうと、なら泥臭く明日に進んでみてもいいかなと思える後味がある。
一言で言い表せないほどの混沌とした孤独があって、それを打ち消すことができると夢を語るのではなく、でも和らげる時間があると教えてくれる。
ムコリッタとは、1日の30分の1、つまり48分ほどを表す仏教用語だそうだ。生と死の境目を漂う主人公山田の意識と、彼があるときは無意識に、またある時には意識を伴って感じる時間について、私たち読者も潜在的に意識せざるを得なくなる。
そして登場人物のそれぞれが、どんなに明るく振る舞っていても、一途に誰かを思っていても、その裏に落ちる影に気づかないわけがないほど、複雑な事情を抱えている。
自分が死んだとして誰か悲しむのか。罪を犯した自分が幸せを感じていいのだろうか。孤独だった子供の頃の自分の欲求を、素直に認められるだろうか。光に包まれるほど、ぐっと肩におもりを載せる腕に掴まれる。
アパートの住人たちは、その全てを理解し合える友達ではなくて、もちろん家族でもない。ただ一緒に食卓を囲む夜があれば、なんだか1日を飲み込める気がするのかもしれないと思える。自分で選んだカーテンや、汗水垂らして育てた野菜なんかが、ほっくりと生を感じさせるものになる。
徐々にどうでもよかった生活が小さな感動の見つかる時間に変わっていくのだ。そして彼が少しずつ気づいていく過程を読み進めるごとに、読者もなんだか救われる気がしている。
とびきり苦しい夜でも、自分の苦しさは知らなかったとしても、ただ笑ってくれる人が側にいれば、案外自分は孤独ではないんだろうな。
友達とか家族とか恋人とか、そんな枠組みを超えた人間関係の中で、生きること、生活を続けることに少し前向きになれるお話だと思う。
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