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SNSに浸かっていたら、文章が書けなくなっちゃった

短い言葉や動画がとめどなく流れてくる、そんな時代に生きている。

そこにはいちいち憤りをかき立てられる政治のニュースがある。ことさらに顔のいい女の子たちがいる。人を傷つける言葉も、喧嘩を売るような口調も、私はあなたとは違うという壁も、なんでもある。

美しいものもある。景色も、愛おしいペットたちも、アーティストの新曲も、輝くグルメも。「羨ましい」が現実となって流れていくようである。

いいものも悪いものも、雑多に目まぐるしく現れては消えていく。それがSNSなのだと思う。

このnoteも、言ってしまえば一つのSNSのプラットフォームでもある。気軽に言葉を流していけるのは、それをどこかで受け止めてくれる人がいるのは、ありがたいことだ。

ツイッターやインスタと違うところは、文章を読むという労力かもしれない。でも、だからこそ文章好きの方が立ち止まってくれる。その立ち止まれる余裕の分だけ、ここは優しい世界になっているのだと私は思う。

しばらくの間、ライタースクールの一環でSNS運用も課題になっていた。それらを前よりも触るようになって、良くなった部分はもちろんある。私がそこで発信を頑張った分見てもらえるようになったかはわからないけれど、少なくとも前よりも届く範囲が増えたと思う。

けれども、最近大きな弊害を見つけてしまった。時間が溶けるのだ。いや、それだけなら前からわかっていたけれど、長文を書くための連続した思考力が、喜怒哀楽が乱高下するタイムラインを追っていくうちに、なくなっていく気がするのだ。

SNSは、ぼーっと見ていられる。それにいいねを押したり、コメントを書き込むことはあっても、所詮は数十秒の感覚と思考。そこから深く自分の中に落としていく作業に向いていない。だって一つ何かに反応したらまたすぐ次のものが流れてくるから。

SNSの使いすぎが思考力や集中力を奪うだろうデータはすでにあるようだけれど、実感を伴って知ってしまったような気がする。このままではまずい、とツイッターを離れてnoteを開くが、書きたいことがぷつんと切れて消えた。

しばらくはnoteにこもって、最近あったことや書きたくてもやもやと積んだままにしているものを出し切った方がいいのかもしれない。

感受性が潰されないように、そして、自分で考えたことを表現できるだけの言葉を持ち続けたいものだ。


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