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答えのない問いについて思考し、対話する「哲学的対話」を学び始めて

哲学的対話というアプローチを友人から教えてもらって興味を持っていたところ、ご縁があって大学での特別講義を受けさせてもらえることになった。

私は全くの哲学初心者で、カントとかソクラテスとか言われると、お〜!哲学っぽい〜!となるほどのミーハー。つまり、学問的にはまったく詳しくない。かろうじて無知の知は知っている。あとは高校の倫理の授業に出てくる哲学者が面白かったことはうっすらと記憶していて、でもこういう機会がないと学ぶことはおろか、職場で実践なんて考えることもなかったと思う。

幸せとは。正しさとは。個性とは。まさに哲学!と思えるテーマから、もう少し日常に寄り添ったものまで、講義で例示された問いは多様で尽きることがなかった。そんな正解のない問いを考えて、他者と対話しながらよりよい答えを探求することを、哲学的対話というらしい。

初回の講義を受けて、なるほど!と思ったことを記録しておく。大学らしい飾り気のないパワポと時折不良になるパソコンを慣れない手つきで触る教授がもたらした授業は、非常に面白かった。


・対等な場であるということ

哲学の問いには答えがない。だからこそ対話の場ではだれもが対等だそうだ。確かに答えがないから、権力や専門性はその人の考えの重要性にはつながらない。

教授いわく、哲学についてなまじ知識がある方のほうが、自分の言葉で語れない傾向にあるという。たしかに、もし有名な哲学者の考え方を知っていたら、答えを知っている気になってしまうかもしれない。でも、どうやらもっとよいものを探さなくてはいけない。それが哲学的会話。その対等性は日常では得がたいものだからこそ、価値があると思った。

・生きることの基盤こそ、答えがない

生きる意味や幸せといった、人が生きていく上で基盤となるもののほうが、実は答えがないものだそう。言われてみれば、たしかに。私たちは当然のような顔をして日々動き、語り、人と関わり合っているけれど、そこにあると信じているはずの共通認識や定義も実は人によって全く違う。

私たちは生きていくために重要なことすら実は知らない。だからこそ無知の知なのだ。記憶の中のソクラテスと教授の言葉が繋がったとき、妙に感慨深かった。

・「人それぞれ」はスタート地点

答えのないことを考えて話し合うのだから、多様な意見が出てくる。賛成や反対というのは伝えていいそうで、そこから参加者の考えが変わっていき、みんなでよりよい答えを目指す。教授は、「人それぞれの考え方がある」のはスタートであって、ゴールではないという。

人それぞれだよね〜で終わらせてしまうことがあるなあと、はっとした。ここから思考と対話ははじまる。きっと答えが出ないことも多いけれど、それを簡単な終着点で終わらせずに粘り強く考え続けることも醍醐味だという。

・ディベートとの違い

自分に与えられた答えを守り、勝ち負けをつけるのがディベートだ。それに対して、相手の意見を聞いて自分も相手も柔軟に考えを変えて、一緒により良い答えを探求していくのが哲学的対話らしい。

私は学生時代は法学部の知的財産のゼミに所属していて、その形式がもっぱらディベートだった。下調べや論述の組み立てはもちろんやったけど、ハッタリもそうとうかました。あの空気感とは違うとわかって、正直なところとてもほっとした。



「今年はカントが生まれて300周年なんです。世界中でカントにまつわるイベントが開催されています。」そう言った教授の目は子供のように輝いていて、大学っていいなあとなんだか急速になつかしくなるのだった。これからの5週間がたのしみだ。

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