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ファミレスで恋人と向かい合ったのは、元優等生だった。

 本当は都内のバーか洒落たレストランかどこかで話す予定だった。暗い店内なら彼を直視しなくてもいいし、ゆるやかにワインでも飲んでいれば、空間が後押ししてくれる気すらしていたのだ。

からりと晴れた7月の日曜17時。しかし、私たちが向かい合って座っていたのは、まだ空席の目立つ郊外のファミリーレストランだった。高校生と、子ども連れしかいない。

今日、これからのことを話すね。

以前から伝えていたのだから、ここで言うしかない。むかいに座った彼は、延長12回の末に引き分けてしまった野球中継のくやしさを感じさせず、朗らかに3連休の過ごしかたの提案をしてくれていた。

目の焦点の中心には彼を捉えているはずなのに、表情が見えない。言葉も耳を通り抜けていく。言わなくては。そうは思っていても、たった一言が踏み出せない。

毎日noteを書き続けて950日以上のわたしは、恋人にnoteの存在を全く話していない。ライタースクールに通ったのは本気で仕事にするためだと伝えたこともなかった。

なんだそんなことかと思われるかもしれない。でも、たとえば結婚だとか同棲だとか、そういう話は彼とはよくしていた。もはや何でも話せるわたしが唯一共有していないのが、note、つまり書くことについてだった。

小エビのサラダ、コーンスープ、マルゲリータとミラノ風ドリア。1枚目の注文用紙のメニューを食べ終わってもなお、noteのトップページを映したスマホを彼の前には出せなかった。


***


「まゆといると、自分がみじめになる。
 つらいから、もう一緒にはいられない。」

社会人になるまえに、ある人からそう言われた。

真白く少しかたい、ビジネスホテルのシーツの上だった。まだ下着しか身につけていない肌に寒さを覚えながら、好きな人から吐き出されることばを眺める。その間、彼と目が合うことはなかった。

「自分から死にたいとは思わないけれど消えてしまえたら嬉しい。」そんなふうに言ってみせる、自分を好きになるという感情を知らないひと。けれども、いつの間にかガラス細工でプライドをつくりあげてしまったひと。

その人が痩せていくのも、待ち合わせの時間をすぎてからドタキャンするのも、会いたいと送ってから送信取り消しするのも、わたしは切なく受け入れていた。ダムの水がこぼれたら止められないように、上から下へと落ちる水を遠くからじっとみていた。

「フリーターだった頃は良かった。まゆが優秀な大学をでているくせに、将来が決まっていなかったとき。でも今は、結局自分とはちがうんだと思い知らされてる。」

日の差し込まない部屋で、一方的に流れていく彼のことばの川。その瞬間にわたしと彼の世界は別れたのだと思う。

コロナ禍で留学できずにフリーターになったわたしと、浪人中にこころを崩してそこからバイトを続ける年下の彼。わたしは日系のそこそこ名前の知られた会社に就職を決め、バイトも卒業という3月のことだった。

彼が自分のことを好きになれないのは、わたしの問題ではない。彼の問題だ。他人を変えられると無邪気に見誤ってすがりつけるほど、わたしは恋愛に夢を見ていなかった。彼の闇を照らせなかった無力感だけが、体を重くさせた。

彼の世界の神様になって救いたいというエゴも、神経質な沼から引き上げてあげたいという願いも、無機質なシーツの上で冷えていった。


***


「どうしたの、なんかさっきからおかしいよ」

目の前の恋人が、イカスミパスタを食べながらわたしを覗き込んだ。ビジュアル系のように、唇が黒く染まっている。

間違いない。言いたいことを言えないもどかしさを隠そうともせず、私はくちびるをぬっと突き出して黙っていた。さっきからおかしいことくらい、私が一番わかっている。

「その、ライターのスクールのことでね。noteって知ってる?」

タコ顔で膨れていた彼女から突然手渡されたスマホの画面に、彼は戸惑っているようだった。え、知ってるよ。これ、読んでいいの、そう言いながら、食事の手を止める。

やっぱり待ってと慌ててスマホをとりあげて、今度は取材記事じゃなくプロフィール画面をうつす。

「実は、noteに毎日投稿して、もうすぐ950日になるの。いままで日記書いてるってごまかしていたのはこれでした。」

彼のつくる一瞬の沈黙に、目を伏せる。

「へえ・・・すごいじゃん」

感情を読み取ろうとしてもわからないその声に、たたみかけるようにポートフォリオの中から一番読まれているインタビュー記事を見せた。上から下まで丁寧に読んでくれた彼は、ゆっくりと口を開いた。

「まゆちゃんはすごい人なんじゃないかって、俺はちょっとずつ思っているよ」


***


「うわあ、マユさん、さすがだわ。ほら、自分らとは違うからさ。」

いつ誰から言われたのかわからない、大衆居酒屋での渦のような会話が記憶からあふれてくる。大学時代、今となっては思い出せないほど些細な言葉に対して、わたしは身構えて生きてきた。

わたしとは違うじゃん
偉いよね〜、そんなんできないわ〜
そんなに成績いいの、じゃあ敬語使うわ(笑)

確かに成績は良かったけれど、別に東大とか京大にいたわけではない。受験だって推薦だし、英語もよく話せなかった。

けれども世の中は、優等生を都合よく綺麗なものとして解釈してくれた。わたしはズルもしないし、男遊びもしないし、仲間を裏切らないし、もしちょっとくらい悪さをしても見逃される存在としてそこにいた。

本当はずる賢くて、それなりに遊んで、みんなのことは友達だなんて思っていなくて、でもそんな私をわかってほしいと思っても無駄だったのだ。

「いいこ」を期待されればされるほど、誰もわたしを知ろうとしてくれないのだと孤独になった。期待がくるしくて、お酒を人より飲んでみたり、遊びでマッチングアプリをしたり、髪をブリーチしたりした。

でもいつも、「完璧にできない私たち」の仲間に入れてもらうことはできなかった。

楽しそうに集団の中心にいた女の子たち。普通に会話して恋愛して別れてまたくっついてをする男女の関係性もよくわからないまま。

誰かからすごいと言われる役割になってしまうほどに、ほほ笑むことしかできなくなった気がする。そういう時にブラックニッカでよく酔って、でも誰にも介抱されないで家に帰ることができる自分も嫌いだった。


***


「すごくなんてないよ」

咄嗟に早口で出てきたことばに自分自身も驚いた。

ストッパーがなくて転げ落ちてきたように、勢いに任せて話していた。

「逆に〇〇君のこと、わたしはすごいと思ってるんだよ」

彼は少し笑って、そんなことないよ、とつぶやいた。わたしにはそこから繋がっていく会話がどんなものか予想もつかなかったし、記憶が本能的に身構えたのがわかった。

もう、傷つきたくはない。全身の毛穴が怖がり、焦り、彼の言葉の続きを待っていた。上から殴り書きするように、イカスミパスタをフォークに巻きつけた。

けれども彼は、それ以上の言葉をなかなか繋がない。

「なんで受け入れられるの。引いたりしないの」

「引いたりしないよ。なんで始めたのかって聞いても、なんで続けられるのって聞いても、それはとても好きだからなんだと思ったから。」

唇を真っ黒にしながら、彼は静かにそういった。手助けできることがあるなら、自分もインタビューを受けるよ、とも。


***


彼が本心ではどう思っているのか、わたしにはまだよくわからない。

人間にはそれなりにプライドを持ち合わせている部分があるし、歩く速度も歩幅もちがう。良し悪しではなく優劣でもなく、どうしても合わなくなったら一緒にいるのが苦しくなる時期があるのは私も経験がある。どんなに好きな相手だって、そんなふうに感じる自分を嫌いになったって、拭えない気持ちはある。

期待される自分を壊したくって、ばかなふりを、できないふりをしてみたこともあった。

学生時代は、その違和感と葛藤に費やされたと言ってもいい。それから時間がたって、もうわたしは書くことをやめられないし、仕事も好きな道を選ぶ。

大切なひとを諦めたくない気持ちと、他人を変えることはできないのだという諦め。大人になったというには、あまりに寂しい鎧を身につけてしまったのかもしれない。

けれども少なくともいま、まっすぐに目を見て話してくれるひとがいる。その瞬間、彼が私の灯台だった。

「デザートは、今日はいいの?」

ひと通り話し終わって落ち着いたわたしに、彼が問う。少し口角があがって、食い意地をはるわたしを楽しそうに眺める目になっていた。

「ジェラートと、トリュフアイスで迷ってるの」

結局、トリュフアイスを頼んだ。濃厚なチョコレートはほんのり苦く、そのあととろんと甘い。

19時の店内には、いつの間にか子どもたちの声があふれていた。ドリンクバーまで先を争う小学生が、お母さんに注意されている。メロンソーダを得意げな顔で運ぶおとこのこの歩幅が可愛らしい。

私のことも、見守ってくれる人がいるんだろうか。自分の一部だけが切り抜かれて、また一緒にいる誰かに苦しさを与えてしまう日が来るのかもしれない。本当の自分のずるさや弱さを理解されないまま、他者を失うことがあるのかもしれない。

けれども、私は信じたい。

好きなものや、できたことを、大人になっても心から喜んでもいいのだと。それを一緒に喜んでくれる人が、どこかにいるんだと。踏み出すぶん大きく水面が揺れるソーダを、自慢げに掲げて通りすぎたあの子みたいに。

静かな祈りを冷たいチョコレートといっしょに飲み込んで、わたしも彼を見つめ返す。チョコレートの粉が、やっぱり少し苦い。




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