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「死」は、なぜ恐ろしいものなのだろう

 とある方のツイッターを拝読していて、そこに「死への恐怖」について書いてあったので、あらためて考えてみるとなぜ「死は恐ろしいのか」というテーマは、これまでやってなかったなあ、と再発見した気持ちです。

 このnoteや武庫川のブログをずっと読んでおられる方にはすでにおなじみのことなのですが、当方「解脱者」を称しているだけあって、すでに「死は恐ろしくない」状態になっちゃってしまっているので、「そういえば、死はなぜ恐ろしいものなのだろう」となんだか昔に戻ったような気持ちなわけで、意外と新鮮(うふふ)。


 さて、その方はこんなふうに書いておられます。
「死への恐怖を持つようになったのは、父との会話がきっかけで、それは太陽は燃えつづけていつかなくなり、地球もなくなってしまうという話を聞いたから」
とのことでした。

 当然自称他称を問わない解脱者であるムコガワも、まったくおなじように考えているし、ちょうどそんな話をnoteに書いたことだってあるくらいです。


 さらに、それどころか、地球が滅びるはるか前に、少なくとも日本人は絶滅するよね、なんて話も何度も書いているので、その理屈から言えば、私は

「ものすごい恐怖」

に晒され続けなくてはいけないわけですが、当のわたしはあっけらかんと

「解脱者でござい」

なんてうそぶいている始末です。それにしても、まったく同じ話を聞いて「恐ろしい、恐怖を感じる」という気持ちが生まれたり、「そうだよね」と平気でいられるのは、どこにどんな違いがあるのか、気になってしまうことでしょう。ええ、とっても気になります。


 ちなみに、この「死が恐ろしい」という話を書いてくださった方は、その後その恐怖の穴を埋めるひとつの答えとして「聖書の教え」に出会ってゆくそうなのですが、それはまた、別のお話。


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 さて、すべての生きとし生けるものにとって、平等に訪れる「死」です。これが「恐ろしい」ものと感じられるのは、ごく自然な感情・感覚だと思います。死の後には何もなく、一切が失われてしまい、それまで会得していたものがすべてなくなってしまいます。つながりが切れ、自分というものも、おそらく存在しなくなるのだろう、と人は「たぶんみんなわかって」います。
 いくら、「来世があるよ」とか「天国があるよ」とか「死後の世界があるよ」みたいなことを知識や概念として知ってはいても、「そうかもしれないけれど、たぶん、全部失われるのだろう」ということには気づいているわけです。
 いったん「わかっている」「気づいている」ものを、その上で改めて「でも来世がある、天国がある、死後の世界がある」と上塗りするような感じで、自分や他人を納得させようとするものなのかもしれません。


 逆に言えば、古代から現代まで、人は「死は虚無である」とわかっているのだけれど、それでもなおかつそこに「希望や未来」をわずかでも見出したいがゆえに、「死後の新しい生き様」を創造したのだと思います。

 キリスト教やイスラム教では、「来るべき天国」のようなイメージで、死後の世界を描きました。仏教では「輪廻転生」のように、この世界で何度もやり直すようなイメージを描きました。

 おもしろいのは日本の神道で、いちばん最初の神である「イザナギとイザナミ」は、イザナミが火の神様を生んで死んでしまうのだけれど、それでも夫であるイザナミは黄泉の国まで妻を追いかけてゆきます。しかし、最終的には、死んだ人間(神)と生きた人間(神)は、おなじ世界で存在することはできないんだ、と黄泉の国に通じる入り口の蓋を閉めてしまったのです。

 この「蓋を閉めてしまう」=死を受け入れるあたりが、なんとも日本人らしい、奥ゆかしさというか、度量を感じさせる神話だと思います。


 死は怖いものなのか。おそらく、古代から人にとっては「怖いものだっただろう」という証拠もたくさんあります。あえていちいち挙げませんが、それは、まず前提として間違いないと思います。

 ところが「死を怖いものと思わない」という考え方も、歴史の中でたくさん見受けられます。

 そのもっとも象徴的なものは、江戸時代の武士道について論じた「武士道とは死ぬことと見つけたり」という「葉隠」の一文でしょう。

 「侍の道とは死である」という強烈な思想は、「死への怖れ」とは対極にあります。なぜ、武士たちはそう思えたのか。そこには来世も天国もないのに、なぜ死を怖れなかったのか。これはたいへんに興味深い事例ではないでしょうか?

 「葉隠」には、実は前後にあまり言及されない文脈があり、それは「常住死身になりて」という言葉で書いてあります。これは、現代語になおせば「常に死ぬくらいの気持ちになって住(生)きる」ということです。

 ぶっちゃけ葉隠には、おなじ文脈の中に「我人、生くるほうが好きなり」とも書いてあります。ぼくもわたしも、生きるほうが好きだよね、と。

 結論を言えば、葉隠の精神は「死ぬ気」と「生きる気」は表裏同一の真剣勝負である、という意味に解釈することができます。

 「生きるのに一生懸命であれば、死ぬことは恐ろしくない」ということを意味しているのです。


 このことは、ちょうどたった今、僕たちわたしたちは毎日ニュースでその現実を目にしているので、とても理解しやすいと思います。

 戦争が起き、一発の砲弾で何千人もの人たちが一瞬にして命を落としています。まるで、命に意味がなく、価値がないかのように人が死んでゆくさまを、目の前の画面が毎日映しているわけです。

 それと同時に、その戦争で死を怖れず立ち向かってゆく人たちが、何万人もいることに気づかされます。なぜ?死んだら何もないのに、なぜ人は戦いに挑むのでしょう?

 それは、誰かの「生」を守るために、「死ぬ気」と「生きる気」の両面が一体となった真剣勝負を挑んでいるからに違いありません。その一生懸命な一瞬のためには、結果的に命を失ったとしても惜しくはない、という気持ちが芽生えるのもまた、人間だというのです。


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 ムコガワサンポというペンネーム以外に、別の名前でいろいろな活動をしていることは既に書いていますが、その中に歴史について調べる仕事というのがあります。

 主に依頼者の家の何十年、何百年もの歴史を調べて報告する仕事なのですが、人は生まれてくるまでに無限に近い人とのつながりによってこの世に生を受けます。

 あなた一人が今ここに存在しているのは「先祖の誰か一人でも、戦争や災害や疫病や動乱で死ななかった」ことを意味しています。子孫を残す前に死んでいたら、あなたはいません。かならずその人たちは、全員、戦争や災害や動乱を生き延びている、という確実な証拠があなたなのです。

(今、戦争や疫病や災害が身近にあるからこそ、その幸運さに気づくことと思います)

 そういう無限のラッキーによって、網の目をかいくぐるようにあなたの先祖が生き延びてきたことを考えると、「死が空虚である」という事実は変わらないのですが、「その命のつながりやリレーって、死よりもすごくない?」と気づかされます。

 実際、すごいのです。誰か一人が死ぬということは、よくあるし多々あります。あなたの先祖になれなかった一族の誰かは、戦国時代に死んだか、太平洋戦争で死んだか、疫病で死んでいます。だから、やっぱり死はそこにあるし、それはぽっかりと空いた穴であることは確かなのだけれど、それをかいくぐって生きようとしている何かが続いていることも確かなのですね。

 これは、葉隠の「死ぬこととみつけたり」につながります。死と向き合いながら、それでも生きたい、それでも生きるぜ!というたくましさが、武士道であり、僕たち私たちを生んだのだ、ということです。


 さて、特に日本においては、戦後に個人主義が強まり、核家族化で「一族の話」とか「先祖のこと」などは伝承伝達されずに、ただひとつの家庭がある場所に突然存在したかのような感覚が生じていることも確かだと思います。

 あるいは人々の大半がサラリーマンとなり、消費者となることで、「先祖代々の土地」とか、「うちの家業」といった概念と疎遠になってしまい、「何十年、何百年という期間に渡って、自分たちが誰かに何かを提供する」ということもなくなったように感じます。

 そうすると、「今ここに存在している家族」が何者かの暴力によって突然失われる、というのは恐怖以外ありえないということも充分理解できます。だって、何が起きているのか、さっぱりわからないのだから!

 何もわからず、何も知らない間にいっさいのものが失われるというのであれば、それは恐怖を感じる対象としては、まったく同意しかありません。それはたしかに「恐ろしい死」に他ならないからです。


 ところが、どこの国でもそうですが、「この土地は先祖代々うちの家系が命にかえても守ってきたんだ!」という一家が、なにがしかの暴力や戦力に襲われたとして、そこではやっぱり「死んでも守り抜くぞ!」ということになるのは納得できると思います。

 その人たちにとっては死は怖れるものではなく、「これまで続いてきた命のリレーを証明すること」「命のリレーを主張すること」に相当するからです。もし、そこで戦うのを止めてしまえば、「命のリレーが失われることを認める」ということになってしまいます。それは到底、受容できるものではないでしょう。一人の命の背中には、無限の命を背負っているからです。


 このことに気づいた解脱者は、死を怖れなくなりました。別に敵と戦っているわけではありませんが、無限の命を背負っているものが、一生懸命生きるだけで、その重みを証明することになり、また次の世代へと受け継ぐことになるわけです。

 解脱者にはこどもがおります。先妻との間に1人、現妻との間に3人もいます。命のリレーに参加した人間として、これからも一生懸命生き、太陽が燃え尽きるその瞬間まで、こっちこそ輝きつづけてやるのです。


(おしまい)







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