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掌篇小説『ラストノートサンバ』

 赤い傘を、さしてゆく。

 私のでない、むろん彼のでもない女物の、ほんの微かにダマスククラシック薫る、傘。
 飴色に艶めくバンブーのハンドルをもち。もう雨のひとつぶも降っていないけれど、ひらいて。

 なんとなく傘の赤にそろえた、厚底サンダルのおもたい脚がふらつき浮くのは、さっき紅茶より多めにいれたブランデーのせいか、例年より早く日本を舐めまわした台風がおおかた去り警報も解けたとはいえ、名残の風に身をすくわれているのか。

 厭味なほど、染みもない赤の傘布より空にうっすら透けるのは、いつも近くの市立スポーツクラブで練習しているシンクロナイズド水泳の選手。試合が近いのだろうか貝のかけらをワンピース水着や両の瞼に散りばめ、きらきらと、ブレも滲みもない奇跡の一筆のような線をからだで描きながら、電線を巧みによけながら、風に踊っている。
 そのあとを追うような追わないような、ふわり流れゆくちいさなもの……判らないので傘をおろしてみると、それは、赤子……というよりもう少し成長している、こども。しかし胎児であったこと或いはもっと遥か以前の何かを思いおこし、何処かへ還ろうとしているのか、裸で、膝を抱き眼をとじ、たゆたう。
「ごめんなさい」
 後ろより言葉だけの謝罪をするのと同時に、私にぶつかる女。こどもの母であろう、割烹着をきておおきな虫取り網を手に、眉間に皺をよせ空を視あげ下駄を鳴らし追いかける。ありがちなことなのか、差し迫った空気もなく。

 ぶつけられた拍子におとした赤い傘を拾うと、骨が二、三本、折れている。羽の傷ついた蝶みたい。二度と飛べない。
「高級そうに視えたのに」
 鼻でわらう。この傘のほんとうの持ち主の『誰か』は、今ごろ空のこどもより、世界にむけ笑顔ふりまくシンクロ選手より、浮かれた心地でいるかもしれないと思うと、顔も知らないが怨めしく。名も知らないが聞きかじりの呪いを、くりかえし唱える。香水のにあう蠱惑的な女と、香水にでも縋らなければ鶏ガラほどの味もない女をふたり、想像しつつ。

 彼のマンションのエントランスと部屋の扉を合鍵であけると、外の湿り気とは打って変り、クーラーもついていないのに妙にかわいた空気が滞留していた。喉がひりひりし、咳こむほど。廊下をまがり台所にはいり、蛇口の水をのみ。

 曇ガラスのコップと骨の折れた赤い傘を持ち、厚底サンダルも履いた儘、リビングへ。
 すこしも弾まない白い石みたいなソファーに、彼は背をまるめ、座る。女でも憧れるほどのストレートの艶髪さえ、今はぱさつき帯電し、妖気でもとらえるふうに四方にはねて。拗ねた時にする手の薬指だけくるくるさせる癖が出ているが塞ぎこむ様子でもないか、顔をあげ、窓を視る。ちょうどさっきのシンクロ選手が華麗に横切っていったが、女として色眼をつかうでも選手として畏敬の念を抱くでもなく、糸の切れた凧でも追うような。
 いっこうに私の存在に気づかぬ彼に痺れをきらし、わざとコップから手を離す。音。割れたと思うけれど、もう知ったことではない。彼はボタンの概ね開いたYシャツの上半身を捻らせソファーに凭れかかりながら、私、それから私が勝手にこの部屋から持ちだした『誰か』の赤い傘、それからひくいテーブルへと、のんびり視線を移してゆく。瞬きの仕方さえ忘れたか、角膜かコンタクトがかわき過ぎひび割れて。彼も酒でもひっかけ潰れていたのだろう……と、現場検証を願わくば終えたいところだが、そんな形跡は哀しいほどになく、あるのは傘からではない、ダマスククラシックの露骨な薫りと、それから。

 くすんだ木のテーブル中央に、黒光りするもの。拳銃。

「昨日の台風で飛んできたんだか、今朝ベランダで拾った。モデルガンだか本物だか知らないけど」
 と、掠れ声。ワンノートサンバを口ずさもうとしてやめるみたいに、ひとつだけの音階で。
「誰もこなかった? 拳銃だけきた?」
「誰もこなかった。拳銃だけきた」
 外国語教室よろしくリピートする、世界一くだらない会話。
 拳銃はまさしく黒のなかの黒、艶が却って闇のシビアーな重苦しさを思わせるトーンで。指を下よりそっとくぐらせ、持ちあげてみると、ルックス以上にずっしりきた。顔をよせれば機械油と煙草と雨と血をあわせた臭いが鼻を刺して。『誰か』のダマスククラシックとまざり、あちこちの血管が萎縮あるいは拡張し意識をうしないそうになる。
 触れるか側にあるだけで銃は、喉も髪も肌も心も急激に潤いをブラックホールさながら奪ってゆく気がし。干からびきった部屋と彼自身は、ダマスククラシックのふくよかな唇(もしくは薄っぺらい唇)に水を生気を吸われただけではないらしい。

 私は彼の前に、婀娜あだっぽく骨の崩れた『誰か』の傘をひろげ。
「ほんとうの銃かどうか、試す?」
 彼の、
「いいよ」
 と音なく云っただろう唇をたしかめたのち、赤い傘布で彼の姿を完全にかくし、私は銃を、ロックするのだか外すのだか不明な部位を、はじめて男性に触れる生娘みたいにてきとうに、ちょっと苛だたしく弄って、引き金をひく。引き金をひく。引き金をひく。拍子抜けするほどそれは震動も弾みもなくて、音も出しっぱなしの蛇口の水よりしずか

 しかし現実に、傘布に幾つも、穴があき。
 傘をおろし彼を視ると、眼を剥き横になっていた。首すじや胸に赤いものが視えたが、それは傘布の切れ端。服をすべて脱がせてみたけれど、
《触れ合わなくなったうちに少し肥ったな》
《よほどストイックでなければヒトの軀なんて、赤子とたいして変らないものね》
 と思うぐらいで、傷もないし銃弾さえ視あたらない。しかし首も腕も脈は、とまっている。薬指も、くるくるする途中のかたち。彼の胸に耳をあて、還る気配のない心音を探りながら、
「ワンノートサンバはヘタだったけど、デサフィナードはやけに上手だったわよね」
 と、彼から発せられた音を思い起こす。肉感的な女と鶏ガラの女が遺していったダマスククラシックの繁みと棘を掻きわけ、うっすら彼の体臭をたぐりよせ。泣いてみたいが、涙腺が枯れている。

 部屋を出る際私は、拳銃をボタニカル柄のハンカチにくるんで持ち、バイキンマンのホルダーについた合鍵をテーブルに放った。彼はむろん視送りもなく、そっぽ向くように首が窓と対峙したかたちに戻っていた。窓には、アンパンマンの頭ほど巨大なヘルメットを被った、飛行士か潜水士かわからないひとが、海より浮いてきたのか、それとも宇宙より沈んできたのか、映り。

 いつしか雲がうすくなり、町はライラック色に塗られ。

 マンションから10分ほど歩いたところに、河がある。向う岸を歩いたり浮いたりする人や犬がホルダーのバイキンマンよりちいさく視えるほど、水を広く深く湛え。
「ごめんなさい」
 後ろより言葉だけの謝罪をするのと同時に、また私にぶつかる割烹着の女。虫取り網のなか、粗いグラフィックとなったこどもをたずさえ、下駄を鳴らし駆けてゆく。女を銃で撃ってやろうかと思ったが、うごく人間は狙いづらい。

 土手をおり、くさむらにわけいる。厚底サンダルでも脚や腕や頬に迄ふれてくるケイヌビエがむず痒いか痛かったけれど、その儘ゆく。水は溢れてきてこそいないが、暴風雨の余韻で流れをつよく、音をメトロのようにふかく轟かせ、じきあらわれる海へと逃亡するように突きすすんでいる。風がゆるみ河におちたらしいシンクロ選手は、それでも流石の体幹の逞しさでまるきり動じず東側に留まり、ローズベージュの水面より生まれ出でたように脚をのばしたり、尻まで身を跳ねあげ、髪に笑顔に胸もとに水玉を飾りつけている。
 私は、ボタニカルのハンカチをほどいた漆黒の銃を、河の西側に投げいれた。女の肌色の河にそれは、呆気なく呑まれ消えた。
 いつの間にやら背後に、さっきのアンパンマン頭の、宙より沈んできた宇宙飛行士、もしくは海より浮んできた潜水士が立っており。
「ドラマは地上にしかありません。
 茶番も地上にしかありません」
 と、厚過ぎるヘルメットのせいで顔どころか男か女かもわからぬ声で、云う。

◆◇◆

 彼とは、私が撃ち殺したかもしれない彼のいた町とは、それきり縁がない。

 赤い傘は、薫りも消え、今も家の傘立てにさした儘。





©2024TSURUOMUKAWA









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また遅れてすみません。参加させて戴きました。


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