掌篇小説『Z夫人の日記より』<158>
5月某日 弟
白い靴。白いコート。
私は身につけない。穢れるから。
母が入院する、
と、弟が現れる。
母にも私にも誰にも似ていない。未だ青年ぽい雰囲気。
おなじ母から生れたことだけは妙に確信しているが、ほかのことは何ひとつ知らない。成人してから会うのは初めてだろうか。私を隠せるほど、肩がひろい。
蟠りもシミひとつもない顔で、語り口もやわらか。ちょっと雲のかかる、白っぽく陽の傾きかけた刻に現れることが多い。本人の顔や手や着ているロングコートも靴も、いつだって、おなじ色。
私は2日にいちどは母の見舞いに行っているけれど、何故だか母と弟と私、3人になる機会はいちども訪れず。弟とは病院の、おおきな窓のある廊下とか屋外の非常階段とか、裏口から裏庭にかけてなど、人気のあまりない場で顔を合わせる。
姉さん、服派手すぎない?
昔は学校から帰っても、制服のまんまだったよね。
お母さんは何も喋らない。音楽も聴かない。
でもなんだか、僕らより長生きしそうな気がするよ。
なんて、階段の手摺に尻をのせ私を視おろしながら、或いは脇に躑躅が咲き誇る石段より私をちょっと悪戯っぽく視あげながら、云う。光のレースカーテンに包まれた、ちいさくバランスよく配置され翳のすくない目鼻が、艶めき霜柱となったみじかい髪が、スタンドカラーと袖口にのみおおきな釦のついたコートが、今にもぼやけて消えてしまいそう。
私の視たベッドの母は、「しんどいから喋らせないで」と云いつつ実に(弟以外のことは)よく喋り、ラジカセでクラシックピアノや毒舌のラジオ番組なんかを大音量で鳴らし看護婦に叱られていたけれど。
おなじ子宮に於て生を授かった筈なのに、弟が識る母は別人格なのだろうか。それとも。
母はじき、退院する。
そうしたら弟は、また姿を暗ますかしら。別に身を裂かれるほど淋しくはないけれど。
躑躅の繁みと繁みのはざまより、一匹のサンドベージュの二瘤駱駝がぬっと首をだし。人を乗せるでも逃げるでもなく、なが過ぎる睫を熙らせながら、ちょうど私と弟のあいだを、スローモーションで横ぎり。
ぶしっ。
ふたり、アレルギーで嚔する。タイミングも、鼻を啜る音まで一緒。顔を視あわせ、すこし笑う。
じゃあね。
石段をおりてゆく、私の履かない、穢れひとつない、白い靴。膨張色でおおきく映るけれど、私とおなじサイズかもしれない、と思う。
©2024TSURUOMUKAWA
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