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Vの切れ目が縁の切れ目

 オタク趣味をやっていると、それを起点に知り合う同志のような人達と出会うことがある。しかし、そのオタク趣味の途絶えと共に疎遠になったりするものである。私はVtuberの厄介オタクをしている者であるが、Vtuberに関してもそういう日が来るのかもしれないと思った。

 私はもともと人付き合いなど到底不得手極まりなく、同担拒否ではないにも関わらず、コンテンツを介しても人並にコミュニティーに属すとか、それで友好関係を広げるとか、そういうことが極端に出来ない人種である。それでも極めて稀にコンテンツがたった1つの小さな接点となり、そこに言葉をほんの2~3交わす程度の交流が生じる奇跡が起こることがあるが、その軌跡も趣味の切れ目と共に終わりを迎えるばかりであった。

 趣味の切れ目と共に知人との接点が消え去ると、私はその知人の何を見ていたのだろうと情けなく、また恥ずかしく思うことが多い。共通の趣味のお陰で話しかけられて、結果的に気の合う共通のコンテンツを推している人と出会えて良かったとばかり思い込んでいたが、趣味の切れ目が縁の切れ目になったということは、その人の本質ではなく、私はその人の趣味という側面だけを見ていたことになるではないか。その人が〇〇を好きだから話せたというのは、その人と話していたわけではなく、私はその人の趣味と話していたに過ぎないのかもしれない。

 思い返せば耳が痛いような思い当たる節が案外多い。なにも交友関係に限ったことではなく、コンテンツに対しての姿勢もそうである。ボカロPがメジャーデビューし、肉声の音楽作品をリリースしたが聞けなかったときに、私はそのボカロPを作家として好きだったわけではなく、ボカロだから聞いていたに過ぎず、ボカロだから脳死で好きなことにしていただけなのかもしれないと思ったし、Vtuberに関しても私は個別のライバーの大ファンというよりも、Vだから一応見ているだけに過ぎないミーハー層であるのかもしれない。

 Vtuberに関しては恐らくプライバシーや所属企業のコンプライアンス・規約等で、引退後に素性を明かしたという事例は全くと言っていい程ないが、もし仮に推していると思い込んでいるライバー「A」が引退後、かつてはVtuber「A」として活動していた元Vtuberの「A‘」であると名乗り、別軸で活動を始めた場合、私は推せるだろうか。これを推せなかった場合、私はそのライバーの本質や個人を好きで見ていたわけではなく、ライバーだから見ていただけで、Vtuberというだけで好きな気になっていたということになる。

 人付き合いやコンテンツ付きあいが必ずしも本質的である必要はないが、深い領域で本質的な付き合いをしているつもりで、実際は浅瀬から外堀ばかりを搔い摘んでいては、そのギャップや誤解が膨らんで手に負えなくなる時がくる。もちろん、その逆も同じで、入り口で立ち話をしているつもりが土足でパーソナルな領域まで踏み込んでしまっていたなんてことも起こる。一方的で勝手な思い込みであったとしても、距離感やその関係性に関する期待や認識のズレとしてギャップや誤解が行き場を失うと、そんな人だとは思わなかった!とか期待外れだ!とかいって容易く言葉の暴力に姿を変える。そうはならないようにありたいものだ。

 私はVtuberの厄介オタクを自称しているが、私はVの何を見て、どこに触れ、何を推した気になっているのだろうか。決して胸の張れるオタクではないと思ってこそいるが、無自覚な失礼や不作法が数多く潜んでいて、いつかそのお釣を鋭利なブーメランとして受け取るような予感がする。その日のダメージや周囲への飛び火を少しでも軽減するためには、自分の在り方というものへの理解は深めておいた方が良いのかもしれない。

いつかは来るであろうVの切れ目に、私は何を失うだろう。

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