「私が私である」ということ
ヘーゲルは欲望によって個人が再び「人類」という全体に変えると考えましたが、キェルケゴールは人は誰でもその人でしかないと考えた。
どんなに変わっても「私が私である」
カール・マルクス 1818〜1883年
お金が欲しいのはどうして?
社会の仕組みが「もの」の姿になって現れたのがお金
お金という「神」は社会の矛盾が顕になると力を失ってしまう。
社会の矛盾とは、最初に土地や財を奪った人だけが得をするという不公平のこと。
つまり社会の仕組みはそもそも「人類全体のものではない。」
この不安定さがあるために、この仕組みはボロが出る。
その具体的な出来事が恐慌
誰もお金を信用しなくなって、取引不可能となる。
私たちがお金を大事にするのは、他人もお金を信じて
自分のものと取り替えてくれると信じているからです。
しかし、信用は案外脆く、誰かが「裸の王様だ!」と言えば、崩れ去る。
マルクスの考えは、お金はみんなが信じている間だけ君臨する「神」で、偽物かもしれませんが、その力の絶大。
現実に私たちは、お金という尺度で「もの」「人」「仕事」「時間」を評価する。
反対に貧乏人はお金という神「宗教」を信じず
神の支配を打ち破る可能性がある。
これが共産主義だ。
フリードリヒ・ニーチェ 1844〜1900年
いい人生、つまらない人生ってあるの?
「生きる」という現実に真理や意味は必要か?
そもそも人生の価値など、誰がどうやって評価するのか
真理とは、意味の正しさのこと。
その正しさは人を縛り、支配する。
もし縛ってもらわないと生きれないのなら、生命力の衰弱。
意味ある人生は、何か自分以外のものに自分の人生の重さを重さをはかってもらう事、しかし、それは必要なのか?
例えば動物は真理や意味などなくても、きちんと生きている。
生きるということ自体を肯定する。
どのような人生でも人生を肯定する。
これには強靭さが必要。
無意味に生きる小さな虫たちは、その無意味さに平気でいられる強さがある。
ソクラテス以来、哲学は真理を追い求めてきたが、ニーチェは真理の力で人々を支配しようとしたのが誰でもなく「支配してもらわないと、人々は生きられなくなっている事実」に気づく。
宗教はありもしない神に従うようになっている。
人々は支配を求めた結果。
そのために「いい人生」という嘘を信じてしまった。
いい成績、いい身体、いい頭、いい仕事
どんな人生でも
もう一度同じ人生を歩みたい。
そう思えることが、生命の力。
意味に縛られるな。
意味があると思われたことが、実は無意味だとする考えをニヒリズムという。
ニヒルとは無のことで、もともとは無神論者や道徳を信じない人に対する悪口だった。
しかし、ニーチェは人生に意味があると信じるのは人生以外のものを指し示すと信じることで
それを嘲笑した。
うわ、最高。
本当にそうだ。
好き。
よろぴく!