”夢”を追うには”結果”というチケットが必要だと思っていたけど

今、誰にも言えない夢がある。それも一つじゃない。

幼い頃から「夢」と言われると急に自分より遠くの話をしているようで嫌いだった。

夢を目指すには、その夢を目指す為の「結果」が必要だと思っていた。好奇心で夢を目指している間は、何も意味がないと思っていた。

小学生の頃は、プロのサッカー選手を目指して日々練習に励んでいた。当時、自分の住んでいる地区の代表を決める選考会を、インフルエンザにかかり欠席した事があった。当然、結果はアウトだった。

その後、チーム練習や自分一人の練習だけでは、上手くなれないことに気付き、病欠したにも関わらず、自分は選考会に選ばれなかった人間として自信が無くなっていた。同時に、プロになることは無理だと確信した。初めての挫折だった。

その頃から、「夢は何?」と聞かれたら「プロのサッカー選手です」と答えていた私は、「いや、お前は結果が出てないだろ」と、誰にも言われていないのに、自分自身に言われている気がして、夢を話してはいけないのだと思っていた。

その時、ネガティブな感情はなかった。消極的に夢を諦めたのではなく、積極的に夢を追いかけた上で見つけた壁だった。当時の自分にかけてあげる言葉なんてない。真実に辿り着いただけの話だった。

その後から、自分自身にとって遠い話でもある「夢」だとかはこだわる必要がないと、好きなものを好きなだけ楽しむような人生を選んで今に至った。

今でも、もちろん夢は持つ。ただ、その先が見えない。この道に壁があるかも分からなければ、道を辿れているかどうかも分からない。例え、進んだ先の結果が「アウト」でも、その結果にすら辿り着けていない。

周りの人たちは、小さなことでも、将来を少しずつ確定して行っているように見える。

そのせいか、夢の話をすると、「いや、結果が出てないじゃん」と、また自分自身に言われている気がした。もうゼロからスタートするにはリスクのある年齢になってきた。

もちろん、何を始めるにも遅すぎることなんかない。いつから何を始めたって良いと思っている。

自分自身で納得できる「結果」が欲しい。「夢を追いかけても良い」と、他人や、自分自身が言ってくれるような。

でも、大人になった今は、その考えも少しずつ変えようとしている。自分のやりたいことの先を見てみたいからだ。

「結果」に拘らなくて良い。「理由」であればなんでも良い。

誰かが自分の持つ夢を応援してくれたらそれで良い。自分で夢に対して手応えを感じてくれればそれで良い。夢を諦めた時にも、その経験から何かを学べればそれで良い。

「理由」を欲しがる自分の守備範囲を広げれば良い。そしたら夢を追っている時間も自分自身で納得できる。

もう周りを見渡すと、「夢」の話をしている人は減ってきた。「夢」の話をすると、「結果なし」では、なかなか周りにも納得されない。それは寂しいよ、やっぱり。

自分自身だけでも、この時間に意味を見出せたらそれで良い。周りは気になるけど、その先に納得しているのは自分だけじゃないかもしれない。

この記事を書いていることも、夢を追いかける「理由」になっていたらそれで良い。

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