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君は一緒に行きたいと思うか?

現代では、やりたいことをやるには空気を読まねばならず、やらないならやらないで息苦しくなる。――停滞する日々において、現状を打破するには、どうすればいいのか。

結論から述べれば、人生とは「やってみるの連続」であったらいいと思っている。

何事もまずは軽い気持ちでやってみて、その都度ダメージを受けたり受けなかったりしながら、自分の在り方を探っていく。

それから普段は身を潜めつつ、やりたい欲が疼いてきたところで空気にひびを入れにいく。充実するには、その繰り返しかなと思った。

どうしたいきなり。はい。それは私が人生に迷う子羊だからである。心身ともにボロボロだ。

何もしたくない。やりたいことだけをやって、やりたくないことはやりたくない。にもかかわらず、すぐに自分を痛めつけたくなる。やらないよりかはやるほうがいくらか気分はマシだ。

諸々の話はちょっくら後にして、現在進行系で金言に溺れたがっているので、まずは私のエゴにぜひ巻き込まれてほしい。まずはボブ・マーリー。

自分の生きる人生を愛せ!
自分が愛する人生を生きろ!

この言葉の透徹さに心は逼迫する。人生を愛することならできなくもなさそうだが、愛する人生を生きるのは難しく思えてならない。

後悔ばかりの子羊にお次は思想家キルケゴール。

いずれにしても君は後悔するだろう。諸君、これが人生の知恵の真髄なのである。

皮肉の味がする。人生をやり直せるとしても、同じ人生を繰り返すだろう。そして、何度も後悔するのだ。それでいいのだ。

相変わらず、私は私を苛め続けている。人間が人間である限り、イジメがなくなることはないように思えてくる。本当は死ぬ気もないくせに、死にたいなどと安易に口走るものだから、ますます罪悪感が募る。

小さな自殺を繰り返している。自殺は悪ではない。が、善でもないことを忘れてはいけない。そこで詩人ポール・ヴァレリーの登場だ。

自殺の許可は完全に幸福な人にのみ与えられる

うむ。強烈である。胸を衝く。どうせ自殺するなら幸せになってから死にたいと思った。自殺に関しては富士正晴もベリーナイスな言葉を残している。

その人がそれに値する人なら、生活力の猛烈な人なら、激しく人生を生きる人なら、その人は折々猛烈に自殺の欲望を持つ。皮肉なことだが、そうなる。けれど、自殺の欲望の激しさが生きる欲望の激しさに裏打ちされている人なら、そこで死んではならない。

死人から学べることは多い。テクノロジーの発達により、時代は変容期にある。無償でいくらでも智慧を授かれることに感謝はしつつ、忘れずにいたいのは人間は今も昔も人間であるという純然たる事実である。

君は一緒に行きたいと思うか?

繰り返す。人生はやってみるの連続がいい。やってみる度、鎖で縛られていた体から血しぶきはほとばしる。が、何もしなければ、何も起こらない。私の人生経験からの教訓である。

しかし、やけに苦しい。窮屈だ。何もかも社会に包括されていく。どんどん管理社会になっている。危機感を覚える。生かされているというより、生かされてしまっている感じがする。

挑戦したいと思うし、自分なりにやってはいる。だが、やればやるほど、虚しくなっていく。白い目で見られているような、呆れられているような。最悪、足を引っ張られているように感じる場合もある。

はち切れんばかりの熱量と、強靭なメンタルを持っていれば逞しく生き抜いていけるだろう。それもないものねだりだ。ただでさえこの国では迷惑をかけないことが美徳としてあり、出過ぎた真似をすれば叩かれる。

電車内で少しでも喋っていたらジロジロ見られる。あるべき姿を押し付けられているような、悪者扱いされているような、一体何をお前は考えているんだと叱責されているような居心地の悪さ。

望む形にそぐわない者がいれば社会は真っ先に淘汰していく。それもこの国では空気や視線で伝えてくる。生きるための活力である酸素は足りず、あるのは圧力という名の空気ばかりだ。

世の中は便利になっていく一方で、幸せの総量は減っている。明け透けな同調圧力。そう思う自分はあくまでも空気でしか察していないので、自分のほうがおかしいのかなという錯覚に陥る。

空気を読めというのはつまり無言の圧力だ。全体を取り巻いている牙によって、少しでも反旗を翻そうものなら、即座に見つかり噛まれる。

今朝、弟と「拳銃があったらとっくに頭撃ち抜いてるよね」という陰鬱な内容の話題で盛り上がった。「暗い話をそれなりに淡々と、それどころか明るく話す」という私たち兄弟特有のノリによって、会話後はスッキリする。

人間社会は突き詰めれば政治だと思うので、人は生きているだけで陣地の奪い合いをしなくてはならないという宿命を課せられているのだと思う。見えない戦争が各地で行われている。

ネット上で、この人はこの人を応援しているのだろうなという場面に出くわす。パターンとしては稀だが、「自分の代わりに他者に標的を攻撃してほしがっている」ようにも見えて、好意の奥に悪意を感じる応援の仕方がある。

きついなと思う俺がおかしいのか。それともこれだけの自殺者が出る社会がおかしいのか。不満を言ったら言ったで言い訳をする自分をおかしいと感じられ、何かをやったらやったで実力不足を露呈し惨めになる。

やれ、やれ、働け、働け。従ったら従ったで言う側の思い通りに動かなければ無視される。金稼ぎマシーンにさせられる。そういう感覚を持つ自分のほうを疑い始め、追い詰められたら最後、拳銃を探してしまう。

心を見つけられない。誰と戦っているのか見えてこないし、戦いたくもないし、やめたらやめたで何もできない何もしない自分を責めてみたくもなる。

勝者はささやく。誰だって自分のようになれると。確かにやればできる可能性はある。しかし、メンタルが強い人がいるなら、相対的に見て弱い人もいる。体力もそうだ。挑戦権さえ、持つ者、持たざる者で分けられる。

大事なのは、そこではない。俺があなたになることではない。頑張ること、働くことをプライドにすることではない。肝要なのは、自分は何のために挑戦するのかをきっかりと知ることだ。

何を手に入れるために動きたいのか。目的を鮮明にしてからでないと、人にとって挑戦とは不幸を手に入れる手段に過ぎなくなる。

家族を守る。恋人と共に生きていく。名声でも金でもいい。挑戦する理由。「ただやれ」という命令だけでは人は動かない。やった後で発見する可能性もあるが、やって惨めになった場合、その惨めさを引き受けるのは言った側ではなくやった側なのだ。

強引な方法で鍛えられることもあるかもしれない。しかし、「やらなきゃ」で続くことはない。人を突き動かすのは「やりたい」という気持ち、継続させるのも「もっと」という気持ち。人はそういった欲で動いている。

動きながらでも真剣に考えていきたいのは動機や目的だ。ニーチェの言葉を引用する。

君は一緒に行きたいと思うか?それとも先頭に立って行きたいと思うか?或いは自分ひとりで行きたいと思うか?…人は自分が何をしたいと思っているかを知っていなくてはならないし、また何かをしたいのだということを、知っていなくてはならない。

己の欲望を知る。時間を懸けてまでやる価値のあることだと思う。やらされるようにしてやるのではなく、何事もやってみる軽さ。「ただやれ」とは違う。興味があるならやってみる。行ってみる。考えてみる。

主体はこちら。何をやりたいのか知らない限り、やりたいことはやれない。やりたいことを見つけるためのステップとしての「やってみる」。

基本的に気圧されて動いてもロクなことにはならないと思っている。圧力なんて空気だけで十分である。自分が自分であるためにある欲。他人と大きく違ってもいい。認めるも何も、そこにある多様性。

繰り返す。主体はこちらだ。夏目漱石の自己本位は、他者の自己も尊重するという意味であり、自己中心の意味合いとは違う。

それぞれの気持ちを尊重しながら、自分のやってみたいという欲望は殺さない。それでは志のないような志だが、他者の欲を認めないことには、自分の欲を出すチャンスも限られてくるだろう。

挑戦とは、あるタイミングで空気を読まないことを意図的にやること。その瞬間、独りよがりになる。それは人間全体の自己を認めるための挑戦でもある。

いろいろやっていく中で、勇気を出したり、痛みを感じたりもするけれど、その刺激のことを人は「楽しい」と表現すると思う。これからもやったりやめたりを繰り返しながら、気軽に挑戦していこう。最後は太宰治で。

笑われて笑われて つよくなる

苦しいからこそ、もうちょっと生きてみる。