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母と私が紡いだ「魂の成長」という名の物語

母が逝った
桜咲く春の訪れを待たずして

母が余命宣告を受けてからの日々は
自分史上、最も過酷を極めた

冷静と感情の間で常に揺れ動き
出来ることは何でもやった

私には兄弟がいるが
私とは真逆な人間とだけ言っておこう

つまり、私は孤独な闘いを強いられた

次から次に訪れる大きな決断
しかし、自分が最後の砦
知恵を振り絞って、やり切るしかない

(Photo by ISSA)

身内だろうと、公的機関だろうと
母の気持ちに寄り添えていないと
感じたときは、躊躇なく嚙みついた

時に「あなたみたいには出来ない」とか
「あなたはやり過ぎ」みたいなことを
言われたりもしたが

私は、嵐の海から、船から、離島から
多くの命を救い上げてきた男

たとえ相手が「がん患者」であろうとも
根幹にある「信念」は何も変わらない

それは

本気で助けるつもりで
取り組まないと

人の命を助けることなど
出来るはずがない

ということ

仕事を理由に
親の介護から逃げてる人は
結局はその仕事に付随する利権を
手放したくないだけで

損得勘定にとらわれている時点で
半端者でしかないのだ

(Photo by ISSA)

だから、私自身は
私に向けられる評価や忠告には
そもそも関心がなく

欲しかった情報はただひとつ
どうすれば母を救うことができるのか
ただその一点だった

そして、何をやるにも、それは
母本人の気持ちに適うものなのか
ということを、愚直なまでに問い続けた

(Photo by ISSA)

先ず、母の治療費を捻出するため
私は、生まれ育った実家を
手放すことにした

母の介護と平行しての売却交渉
それはそれで骨の折れる仕事だったが

出来たお金で、なんとか
保険適用外の高額医療を
受けられるようになった

(Photo by ISSA)

本当に困難を極めたのは
独り暮らしの母と私の間に存在する
地理的な隔たり

毎週1〜2回
片道4時間の道のりを行ったり来たり

家族が私の不在間をカバーしてくれたが
どうしても母を独りにさせる日があり

そのたびに、母に取り組ませたい
セルフケアや代替医療は
中断を余儀なくされた

(Photo by ISSA)

そして最大の障壁は
母自身の意識の問題だった

3:27 さんが教えてくださった
船戸クリニック院長のお言葉を
お借りすると

生き方を劇的に変えた人ほど
がんを遠避ける

これこそがまさに
がん治療における本質であり真実

つまり、がんを生み出す結果になった
患者自身の生活習慣や考え方を
変えなければ、治療はおろか

たとえ治療に成功したとしても
がんは再発してしまう

しかし、私がどんなに知恵を振り絞って
様々な取り組みを働きかけても

母の意識や行動を変えることは
ほとんど出来なかった …

(Photo by ISSA)

がん治療の権威的な存在だった
叔父の勧めで「カート療法」に取り組み
高いQOLを維持できたものの

この間もがん細胞の転移が進み
ある時点から、急速に状態が悪化し始めた

(Photo by ISSA)

入退院を繰り返す中
ついに主治医から

「これが最後の外出と思って下さい」

と告げられ、自宅に連れ帰った

いつものように、温泉に連れて行き
いつものように、自宅で休ませてあげた

(Photo by ISSA)

最後の外出が終わった日
母を病棟に預けて帰宅
 
しんと、静まりかえった実家
そこには、母と私の
奮闘の爪痕だけが残されていた
 
もう二度と、母は住み慣れたこの家に
生きて戻ることはない …

そう思うと、とめどなく涙が溢れた … 

(Photo by ISSA)

とうとう、私には
母が安らかであることを願う以外に
打つ手がなくなってしまった …

結局、何をやっても無駄だったのか …

静まり返った夕暮れの実家で
おいおいと、嗚咽するしかなかった …💧

(Photo by ISSA)

そして、いよいよ
「緩和ケア病棟」への移転が決まる

そこは、生命の揺りかごとは対極にある
旅立ちのゆりかご

(Photo by ISSA)

病床で、一日一日
死に向かい歩み始めた母が
可哀そうで、可哀そうで
仕方がなかった

これ以上、どうしようもなく
自分自身が歯がゆく
自責の念や後悔の念ばかりが
込み上げてきた

(Photo by ISSA)

数日おきに病室に泊まり込み
献身的に支えたが

次第に、覚醒中は常時、耐え難い
苦痛に苛まれるようになり

痛みに嘆き苦しむ母の声が
一晩中、病室にこだました …

(Photo by ISSA)

看護師さんたちも最善を尽くしたが
「緩和ケア」という言葉の印象から
ほど遠いのが実情

神よ仏よ
母がいったい何をしたというのだ
あなたは、何故、年老いた母を
かように苦しめるのか

(Photo by ISSA)

「何でこんなことになったんだろう」
 と繰り返す母

「良くなったらまた
 美味しいものでも食べに行こうね」と

優しいウソをつき通すことしか
出来なかった …

(Photo by ISSA)

オムツ姿で、やせ細った太もも
小さく折れ曲がった身体
お腹だけが、腹水で一杯になっている

母の手を握り、私という存在を育んだ
そのお腹を優しく擦る …

寝返りを打たせたり
座らせたり、立たせたり
時には下のお世話もした

真夜中の肉体労働は
心底身体にこたえる

(Photo by ISSA)

主治医から

「苦痛もそろそろ限界なので
 鎮静剤の皮下注射で昏睡状態に導きます
 意識があるうちに
 最期のお別れをなさってください」

と告げられた

私は母に

「ずっと独りぼっちにさせてごめんね
 いつも優しくしてくれてありがとう
 お母さんの子供で良かった」

そういって、そっと抱き締めてあげた …💧

(Photo by ISSA)

このあと、母は昏睡状態となり
点滴も止められた
あとは、命のバッテリーが切れるのを
何日も、ただ待つだけの状態

こんな残酷なことが
本当に現代医療と呼べるのだろうか?
様々な思いが脳裏を駆けめぐる

何の打つ手もなく
悶々とした時間だけが流れる

そんな時、私は
宇宙最高の神がお住まいになるという
こちらの神社に呼ばれた

居ても立っても居られなくなり
降りしきる雨の中、飛び出した

おんめいきやしやにえいそわか …
ここへ来れない母の代わりに来ました …
私にはもう …
母が何を望んでいるのか分かりません …
どうか、母の心からの願いを …
叶えてあげて下さい …

と、祈願し

その後、母の病室を訪れて
龍のウロコのお守りを
母の枕元に吊り下げた

左:龍のウロコのお守り
右:神龍八大龍王神社 
(Photo by ISSA)

そして、その日の夜
母は、静かに息を引き取った …


母の心からの願いは
苦しみから開放され
父の元へ旅立つことだったのでしょう

連絡を受けて病院に着いたとき
母の身体には、まだ温もりが残っていた

(Photo by ISSA)

だらりと力が抜けきった手を握りしめ
辛かったね、本当に良くがんばったね
と声をかけ

あなたを救いたかったと
嗚咽するしかなかった …💧

母の死亡診断時刻は
午後11時50分

(Photo by ISSA)

日付が変わる10分前
日付が変わると、私の誕生日だった

私の誕生日を命日にしてしまわないよう
母なりの最後の思いやりだったのでしょう💧

(Photo by ISSA)

主治医から
ほんとうによく頑張りましたね
と言われたが

「どれだけやっても後悔は残ります
 救いたいと願い、闘えば闘うほど
 後悔するものかもしれないですね」

そう答えると
主治医は言葉を失った

(Photo by ISSA)

終始、静観を決め込んだ連中は
きっとこう言うだろう

ほらみろ、無駄なことを
人は死ぬときは死ぬ
だから、無駄な努力はせず
自然に身を任せておれば良いのだと

(Photo by ISSA)

しかし、私は無駄などとは
1ミリたりとも思ってない

運命に抗い続け
最期まで知恵を振り絞り
行動し続けたからこそ

母の「命」は救えなくても
母の「魂」は救われたのだ

(Photo by ISSA)

かくして、私は、
母の病と闘う一方で
傍観者を決め込んだ
血を分けた兄弟とも闘った

私は、この二重の苦しみの果てに
実に多くの事を学んだ
 
「がん」そのものへの
理解を深める一方で

がん患者とその家族の苦しみが
心底、分かるようになった

また、日々がん患者を抱える
医療従事者の大変さも良く分かった

(Photo by ISSA)

そして、これまで以上に
信頼できる人と
そうでない人を嗅ぎ分ける
嗅覚が研ぎ澄まされた

本当に信頼できる人というのは
救いの手を差し伸べる
タイミングが絶妙なのである

(Photo by ISSA)

私は、ある時点から

魂のレベルでは、母と私の間で
次元の異なるコミュニケーションが
行われていることを悟っていた

がん細胞に冒され死にゆく母と
それを助けたい一心のバカな息子

外見上はそんな風にみえるけど
魂のレベルで行われていたことは

自らが死にゆくことで
息子の更なる成長を促す
という師弟関係

(Photo by ISSA)

それこそが、余命宣告という
限られた時間の中で

母と私が紡いだ
「魂の成長」という物語だった

老いとは何か 病とは何か
死とは何か  如何に生きるか

そういうことを
母が自らの身をもって
私に教えてくれたのだ

(Photo by ISSA's family)

しかし

貴女がいない世界は
こんなにもつまらないものとは
思いもしなかった

貴女が生きているからこそ
遠いところで頑張ることもできた …

貴女をこの手で救いたかった  …💧

(Photo by ISSA)

この胸にぽっかりと開いた大きな穴

それは、

お世話をしたい人が居るという
尊い幸せを失う痛み …

母が亡くなった日から
3日3晩、土砂降りだったのに

母を荼毘に付す頃には
すっかり青空が広がっていた

(Photo by ISSA)

そして、桜の蕾が
春の訪れを知らせていた

絶やすことなく
僕の心に灯されていた
優しい明りは あなたがくれた
理由なき愛のあかし

おしゃべりで、温泉や外食が大好きで、
猫好きで、動物好きで、遠出が好きで、
展示会を開くほど編み物が上手な母でした

(Photo by ISSA)

お母さん、向こうで親父と二人
安らかにお過ごしください
今まで本当にありがとう🌻

私は、これからも
人の「辛さ」を
一緒に「抱え」られる人で
あり続けたいと、そう思います🌱

ーーーー note の皆さまへ ーーーー

 母が余命宣告を受けてから
 多大なご声援やご助言を賜り
 本当にありがとうございました
 この場をお借りして
 深く御礼を申し上げます🍀