ジェンダー学とフェミニズム
ジェンダー学を始めるに当たってぶつかる問いは、ジェンダー学とフェミニズムは同義だろうか、言い換えれば、ジェンダー研究をするにはフェミニストでなければいけないのだろうかということです。フェミニズムを、別の記事でも引用した「性差別、性的搾取、性的抑圧を終わらせるための運動」(hooks, bell. (2000) Feminist Theory: From Margin to Centre. London: Pluto, p.33.(筆者訳))と定義すれば、ジェンダー学はざっくりと言えば社会事象をジェンダーの観点から分析する学問なので、一見性質の違うものです。運動としてのフェミニズムを支える根拠であるフェミニズム理論は、確実にジェンダー学の範疇に入ると言えるでしょうが、運動を支持することと学問をすることは別物に聞こえます。私も、自分がフェミニストだと思って勉強を始めたわけでも、フェミニストになろうと決意して始めたわけでもありません。ところが実際には、学べば学ぶほど、ジェンダー学とフェミニズムは切り離せない——ジェンダー研究をしながらフェミニストではないと主張するのは不可能に近いのです。
私がジェンダー学を専攻した経緯はこちら。
差別・抑圧に対して中立という立場はあり得ない
Travis Alabanzaはトランスジェンダー、ジェンダー・ノンコンフォーミングの作家、劇作家、パフォーマーであり、Burgerzという(ハンバーガーの複数形をもじった)この劇は世界ツアーを行うほどの衝撃と人気を呼びました。何よりも胸に刺さったのは、「何もしないことは中立ではない」という言葉。Travisはもちろん、ハンバーガーを投げつけてきた男から直接的に傷つけられたのですが、むしろそれよりも心に痛手を与えたのは、周りの人々の傍観でした。現に起こっている差別、権力のある者から弱者への抑圧に対して「何もしない」——表立って対抗しないだけでなく、虐められた者のフォローにも回らない——ということは、差別に加担しているのと同義です。「誰も何もしない」、つまり全員が自分の行動を黙認していることを確認した権力者は、自分は「正しい」ことをしたのだとつけ上がります。だから、構造的な差別に反対しないということは差別を肯定することなのです。
「自分はフェミニストではない」という人に、では性差別を肯定するのかと聞けば、おそらく大抵の人は(たとえ建前上だけであっても)否と答えるでしょう。差別という言葉は必然的に悪を意味しますから。そういう人たちが「フェミニストではない」と言う理由はおそらく二つ——「フェミニスト」という言葉が必要以上に過激に聞こえるから、そして、今の時代にそれほど深刻な性差別は残っていないと思っているから。前者については、本来フェミニズムは「性差別をなくす」という至極真っ当な目的を掲げた運動・理念全体を指すものであり、不当な扱いを受けているのは残念でなりませんが、その単語を使うだけで受けてしまう不要な反発や先入観を考えれば理解できます。それよりも問題なのは後者です。差別や理不尽さの存在を身をもって感じている人にとって、それを被害妄想だと言われることは直接の差別的な言動と同じくらい、時にはそれ以上に傷つくものです。現に起こっている差別を見なかったことにされ、思い込みだと詰られるのは、まさに傷口に塩を塗られるのと同じです。残念ながら現代社会は、そういったことが起こりがちだと思います。ジェンダー、人種、階級といった、歴史的には誰もが差別があったと同意するであろう問題に関しては、それらがまだ完全に過去のものにはなっていなくて、今も差別・不合理が継続していると世間を納得させることに労力を割かなくてはいけなくなってしまっています。そういう状況にあって、ジェンダー学とは、社会の根底にあるそのような差別の構造を明らかにし、ジェンダー規範が実際の事象にどのように結び付いているのかを説明する学問なのです。
ジェンダーは無視できない問題だと証明すること
ジェンダー学とはまさに、この「主張し続ける」というプロジェクトを、学問研究として行うものです。この社会で目に見える事象が、どのようにジェンダー規範と絡み合って今の姿をしているのかを、哲学、経済学、法学、社会学、生物学、心理学、歴史、民俗学、言語学、教育、文学…といったあらゆる学問分野に跨って遡り、説明しようとする取り組みです。なぜ東大の男女比は4:1で、女性の政治家も経営者も管理職も圧倒的に少なくて、看護師や介護士や保育士は女性が多いのか。なぜ女であるだけで、男の同級生より腕相撲が強かったり算数や理科が得意だったら可愛げがないと言われ、メイクをして「女らしく」振る舞うことを期待され、育児や介護で人に頼りながら外で仕事を続けると責められるのか。なぜ男であるだけで、「男なら泣くな」と言われ、一家の大黒柱になることを期待され、プライベートで何が起ころうと仕事に影響させないのが美学だとされるのか。なぜ男や女という括りが自分に合わないだけで、好きな服を着るのも好きな人と手を繋ぐのも「気持ち悪い」と言われるのか。
学べば学ぶほど、現代の人間社会においてジェンダーというカテゴリーがいかに根深く影響力を持っていて、そして今も繰り返し強化されているのかを目の当たりにすることになります。そうなった時に、「ジェンダーなんて今の時代に関係ない」「このままの社会でいい」と言うことは、開き直って既得権益を守ろうとするのでなければ不可能です——植民地主義や人種差別を学んで、それらに反対の立場を取らないのが不可能なように。人間は誰しも平等だと信じるのならば、論理的な結論は、生まれの性やジェンダーやセクシュアリティに関わりなく誰もが自分らしい人生を選べる社会を目指すこと以外にはあり得ないと思うのです。ですから、ジェンダー研究をするということは今も継続するジェンダーのしがらみを明らかにすることであり、それ自体がフェミニズムを支える基盤であると同時に、そういったしがらみからの解放を目指すフェミニスト的立場を取ることに帰結するのだと思います。
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