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スカートにパンプスなのを恨んで、そんな自分と社会が心底嫌になった時——生身の経験と学問

パリ、夏。女二人旅。日本から休みをとって来てくれた友人と1週間盛りだくさんの旅行をして、素敵な最後のディナーをした夜のこと。シャンパンフラッシュが見たいという彼女とエッフェル塔のふもとまで行って、日付が変わってから帰って来た。そんなに遅くなったのは私にとっては想定外だった。
 最寄駅からホテルまでの15分の距離で、膨らんでいた私の気持ちは一気に萎む。怖かった。すごく治安が悪いエリアではないし、金曜夜、大通りは明るく賑やかだった。友人も海外旅行には慣れていたけど、一人で海外をふらふらしたり、という意味では私の方が旅慣れていた。彼女はどこに行っても多少目立つくらいの美人で、いつも頭の先から爪先まで完璧な出立ちだ。対して私は、動きやすさ重視、できればあまり観光客に見えたくない、掏られたくないと思っていた。計画はほとんど私が立てていたし、日本から来てくれた友人を危ない目に遭わせるわけにはいかない。でも、その日は、観光の後に一度ホテルに戻ってディナーに合わせて着飾っていた。コテで巻いた長い黒髪、アクセサリー、クラッチバッグ、ワンピースにパンプス。私たち二人は一見してアジアから来た若い女性観光客だった。
 一目で「弱い女」だと分かる服装、走れない靴、疲れ、大通りを外れた暗い道。自分たちの無防備さに内臓がキュッと絞まって、周りの空間全てが私を押し潰そうとしているように感じた。こんなに遅い時間でなければ、いつものようにジーパンにスニーカーだったら、夫か男友達が一緒にいれば、街がこんなに酔っ払っていなければ…そんなことをぐるぐると考えながら、隣で能天気そうにしている友人に苛立った——そしてそんな自分がとてつもなく嫌だった。お洒落をするのは楽しかったし、ディナーはとても美味しくて、エッフェル塔は綺麗だった。私たちは何も悪いことなんかしていない。普通に髪を下ろして、普通にお洒落をして、普通に日本語で喋っているだけだ。その道で日本人が被害に遭ったとか、スカートを履いていた女性が狙われたとか、そういう具体的な事件があったわけでもない。それでも、性暴力のニュースを耳にする度、スマホで気持ちの悪い広告を目にする度、「有色人種の女」であることの脆弱性を感じずにはいられない。だから、一人では夜は出歩かず、ズボンを履き、早足で歩く。私はそうやって「安心」を手に入れてきた。電車で痴漢に遭いはしても、夜道で実際に被害に遭ったことはない私でさえこうなのに、トラウマを抱える人たちはどんな思いで日々道を歩いているんだろう…。こんな恐怖を押し付けてくる社会がやりきれなかった。

ジェンダーは 'performative(行為遂行的)'

だから、まず第一に、ジェンダーが行為遂行的(performative)だと言うことは、それはある種の上演(enactment)だということだ。ジェンダーの「見かけ」はしばしば、その内在するあるいは本質的な真実を指し示していると誤解されるが、ジェンダーは、私たちが(通常は厳密な二元的枠組みの中で)こちらかあちらのジェンダーになることを要求する義務的規範に誘発されている。だから、ジェンダーは常に権力との駆け引きなのだ。そして最後に、この規範の再生産——こういった上演の繰り返しの中で、予想外にその規範を取り消したりやり直したりして、ジェンダー化された現実を新たな路線で作り直す可能性を生むリスクのある再生産——を伴わないジェンダーは存在しない。
Butler, J. (2015) Notes Toward a Performative Theory of Assembly. 
Cambridge, Massachusetts: Harvard University Press, p.32.(筆者訳)

ジュディシュ・バトラーはジェンダーは 'performative(行為遂行的)' だと言う。私の恐怖も、スカートで夜道を歩かないという選択も、ジェンダー規範に影響されていると同時にそれを再生産している。私が怯えていることで夜道で「女は脆弱だ」という概念を裏付け、一人で夜道を歩くスカートの女性が減ることで「分別のある女は女らしい格好をして暗い道を歩かない」なんていう言種を助長してしまうかもしれない。だから、本当は、どんな服装をしていようと堂々としていなければいけないのかもしれない。当然その道を安全に歩く権利があるのだから。でも、私が深夜にミニスカを履いていて怖い目に遭ったとして、責任を取ってくれる人などいない。それどころかきっと、「そんな格好でそんな時間に出歩いている方も悪い」などという心無いことを言う人がいるだろう。確かに、ズボンを履いていたとしても、同じ時間に同じ道を通っていれば結局被害に遭ったかもしれない。でも、歴史に「もし」はない。自分に非はないと分かっていても、間違いなく、もっと地味なダサい格好をしていれば避けられたのではないかと後悔するだろう。
 実家を出るまで、私の母はそれなりに過保護だった。やりたいことは大抵応援してくれたが、帰りが遅くなることには口うるさかった。駅まで迎えに行くから、帰るまで起きて待っているから、12時までに帰って来てと言われ、迎えは要らない、先に寝ていいからと何度言い合いをしたか分からない。実家は最寄駅から少し離れていた。遅くなり過ぎたらタクシーで帰るからと言っても、心配で寝られないと言われた。「大丈夫だとは思うけど、万が一何かあったら悔やみきれないでしょう」と。母は正しい。私が娘を持つ母親になったら、同じように心配するだろう。そこは日本の、東京だ。若い女の子が一人で歩いたりタクシーに乗ったりしても、限りなく安全に近い。それでも、同年代の男子と比べれば、性被害に遭う危険性はもちろん高い。大学でよく遊んでいた友人には男子が多かった(東大の男女比を考えれば当然だ)。母と帰宅時間で揉める度、私の男友達は絶対にこんな言い争いをしなくていいのにと妬み、母のもっともな心配を鬱陶しく思い、私が「男」だったら…と思ったりして嫌になった。自分の人生を楽しんでいたし、「女」に生まれたことに基本的に不満はなかった。だからこそ、時々顔を覗かせるどうにもできない「差」が恨めしくて、そんな風に思ってしまう自分が「女」の人生の良さを、価値を否定しているようで許せなかった。

生身の経験に寄り添う学問

私たちが学問、学術論文、学術書と言う時、無意識のうちに「主観を排した客観性」を想定していると思います。一人称で語る個人的な体験談や感情は「学問的」ではないと。ジェンダー学は、こういった認識自体が、抽象と具体、客観と主観を対置して前者を崇高な「男性的な」ものとする二元論に基づいていると批判します。西洋近代の学問という知の体系自体が偏っており、フェミニズムはそれに挑戦しようとしてきました。その一つの特徴が、一次体験の重視でしょう。

暴力、不平等、非正義を説明しようとするフェミニストたちは[*抽象的な理論を展開する哲学者よりも]より難しく、困難な課題を提示していると思います。私にとっては、経験に基づいた研究、実在する世界にこそ、困難そして挑戦が巣くうのです。…人種差別やセクシズムといった現象を説明すること——それらがどのように再生産され、また再生産され続けているのか——は、ただ単に新しい言語を習うだけではできません。…私たちはここで、思考の限界に直面し、それを繰り返します。…私たちは分析できない何かに立ち向かっているのです。
Ahmed, S. (2016) Living a Feminist Life. Durham: Duke University Press, p.9.(筆者訳)

ジェンダー学は、この社会で実際に直面する理不尽さ、生きづらさ、違和感を分解し、人間社会の歴史を遡って説明しようとする学問であり、「私の」「あなたの」「彼/彼女の」生身の経験を研究・考察対象とします。そこにおいて、一人称で語る主観的な体験は必要なピースの一つであり、安易に一般化された「私たち」よりも歓迎されることもあります。そのくらい、個人の経験は特別であり、痛みを伴い、だからこそ力強いものです。例えば、ブラック・フェミニズムの権威であるbell hooksの著書 "Ain't I a Woman: Black Woman and Feminism" の題名は、1851年に米国・オハイオ州で開催された女性会議におけるSojourner Truthの演説からとったものです。

参考:BBCドラマ版 BBC Two - English File, Texts in Time: The Power of Speech, 'Ain't I a Woman?' speech by Sojourner Truth (dramatisation)
※書き起こしには複数バージョンあり、当時の演説の一言一句については不明な点があります。

bell hooksの言葉一つ一つも、この有名な演説のように悲痛で、鋭く胸を抉ります。フェミニズムはこういった一人一人の叫びなくしてはあり得なかったし、ジェンダー学もそれらと共にあるのです。

New Materialism(新物質主義・新唯物論)

今、私は、New Materialism(新物質主義・新唯物論)と呼ばれる思想体系に関心を持って勉強しています。これは、ものすごくざっくりと言ってしまえば、セックスを生物学的な所与のものとする本質主義(モノ、自然が絶対的)に対してジェンダーは社会的に構築されたとする構造主義・ポスト構造主義(認識、文化が支配的)があり、その両者ともに不十分だとしてモノの流動性——モノと認識、自然と文化を切り離すことはできず、あらゆる存在が常に働きかけ合いながら変化し続けている——を量子論などの最先端科学を引き合いに論じる派です。例えば、私がワンピースにパンプスでパリの夜道を歩きながら説明できない恐怖を感じている状況は、私の中のジェンダー意識を強めると同時に私の身体にも(呼吸が浅くなったり早足になったりといった)影響を及ぼし、その身体への影響のせいで私の視野は狭くなっているかもしれないし判断力が鈍っているかもしれず、むしろ逆に神経が研ぎ澄まされているかもしれません。私が怯えているのを見てとってそれにつけ入ろうとする人がいるかもしれないし、心配して大丈夫?と声をかけてくれる人がいるかもしれません。その人がどんな見た目でどのジェンダーに見えるかによって私の咄嗟の反応は変わるかもしれないし、やり取りの中で私の意識や身体の状態も、その人や周りで見ていた人たちの認識も変わっていくかもしれないし、その空間の空気自体が張り詰めたり緩んだりするかもしれません。そこには常に無限の可能性があって、何が主体で何が客体か、そもそも両者の境界はどこにあるのか、切り取った刹那のスナップショットでしか分からない絶え間ない流動性があるのです。これは、複雑な生身の経験を何とか説明しようと格闘してきたジェンダー学が今のところ辿り着いた最先端であり、混沌をできる限り混沌のまま把握しようとする実は最も原始的で非西洋近代的なアプローチではないかと思います。突然量子物理学なんて言われた日にはどうしようかと思いましたが、なんとなくしっくりくる気がして目下勉強中です。

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