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映画PERFECT DAYSを観て

遅ればせながら、WIM WENDERS監督、役所広司さん主演の映画、PERFECT DAYSを観る。


※以下、感想を綴りますが、ネタバレとなってしまうので、未鑑賞の方は読まない方が良いかも知れません。また個人的な感想であり、独断・憶測で語っていることについても何卒ご了承ください。


 PERFECT DAYSは、役所広司さん演じる、トイレ清掃員の平山が主人公の映画で、東京、渋谷区の一風変わったトイレ(主に有名な建築家らが手掛けた)の清掃を生業としている男の淡々とした、しかし「完璧な日々」を詩情ゆたかに、かつ素晴らしい平衡感覚で描いた作品でした。平山という男は、毎日の生活や仕事における様々な所作を、ある美しい聖なる儀式のように淡々と、そして実に丁寧に、粛々と行なっていきます。(それは鶴見俊介の言う限界芸術のようでもありました。つまり何気ない生活における行為の芸術性の話です。)早朝、近所の人が道を箒で掃き掃除する音で目覚めると、布団をテキパキとさっさとたたみまず1日を始める。その部屋は文庫本とカセットテープが並んだ、しかし、その他にはテレビも何もない、とても簡素なあっけらかんとした畳の部屋。(その部屋と最初の颯爽とした所作からある主人公の強い意志を感じました。)それから階下で徐に歯を磨き、髭をハサミと電気シェーバーで剃り整える。その後、育てている植物に霧吹きで水をやる。(間取りの内、一部屋を植物の栽培に当てていて、特別な紫色の光を当てている。それが侘びたアパートを外からカメラで映した時に、アパートの前の古ぼけた自動販売機の発光と相まって、早朝の仄明るい中で、ある独特の美を醸していた。)それらが毎朝のルーティーンとなっているようだった。

 そうして一連の朝の儀式を終えると、清掃員のつなぎに着替え、丁寧に並べた鍵やケータイ、小銭を装填・装着し、アパートのドアを開けて空を見上げると、薄暗いながらも陽の光に安堵し、それに微笑んで仕事に出かける。(家の前の自販機で缶コーヒーを買うのも日課らしい。)そして青い軽自動車に乗り込み、"完璧な選曲の歌"(Lou Reed, Nina Simoneなど)をカセットテープで流しながら仕事場へと出かける。

 職場に着くと、平山は仕事も実に丁寧で念入りで、同僚の年若い、柄本時生さん演じるタカシの不真面目さをよそに黙々と、淡々と掃除を行なっていく。時に掃除夫として人に軽んじられることもありながらも、しかし周りの人に優しく、そしてトイレ掃除をある種、聖化するように、美的に実直に、仕事に奉仕する。(本人はそんな気はまるでないだろうが、その姿にはある宗教的な敬虔さを感じる。)また、彼は、太陽の光と植物の緑、それから木漏れ日に何か特別な深い幸福を感じているらしいことがわかる。それさえあればどんなことだって耐えられる、乗り越えられるというような強い希望をそれらに観ているかのようである。掃除中のトイレに利用客が入った時に、仕事を中断して外で待つ時に目に入る、緑と木漏れ日に安堵と充足を感じ、また昼休みの休憩時間には陽に照らされ風にそよぐ木々の美を日々、フィルムカメラで撮ったり。部屋で飼っている植物からも察せられるが、彼は緑や木々に深い充足を得ている。(仕事の休み時間、もみじの若葉を根から摘み取り、持ち帰ったりする。どうやら家の植物はそうやって外から持ち帰った株?らしい。また幸田文の「木」という文庫本を古本屋で買ったり。)

 そうして仕事を終えると、彼は家に戻り着替え、自転車に乗り銭湯に行く。(その姿も服装や、自転車など、とてもひとつひとつが趣向を凝らしているというか粋で、お金をかけていないのかもしれないが、なんというかすごくお洒落である。といって外連味なく。)彼は銭湯でも非常に嫌味なく紳士的で、つまり本当に心優しい人間であることが窺える。その後、浅草の地下街の叙情溢れると言っていい飲み屋で、相撲や野球中継を見ながら酒を汲む。店員と交わすやりとりもとても気持ちがいい。そして充実して家に戻った彼は就寝間際まで文庫本を読み、寝落ちする。そんなルーティンを送る彼の日々はまさしくPERFECT DAYS。完璧に、完全に、美的で詩的な日々である。翌日、また同じように完璧な日を繰り返す。

 しかしそんな彼にも深い、濃い暗い影がある。それは物語の中で察することしかできないのだが、どうやら彼は多分、上流階級の出らしいということ。それは彼の親族を通して察せられることである。そして、1日の終わりに眠り就く彼の夢は悪夢ではないが、どこか絶えず不穏であるということ。つまり彼が希望を感じる朝や午前の光に対して、影がいつも付き纏っているという怪しさが、それほど明示的ではないが朧げながら、この映画中ずっと釘を刺すように持続する。どうやら彼の夢見心地はあまり健やか、穏やかではないらしいということ。

 それは、後々察せられるのだが、どうも出生、親子、父と子との関係の中で、平山が元々置かれた場の、ある社会的な責務を彼が引き受けられなかった事に起因しているように僕には思われた。つまり、彼の父親はこの世界、社会の、つまり資本制度の社会の成功者であるが、彼は、多分、それがどうしても受け入れられなかった、ということらしいのだ。父親は既に老人ホームに入るぐらいに弱っているらしいが、結局は平山は未だ親子関係を受け入れられずにいるということ。それは劇中のわずかな会話や、彼の親族関係、また彼が愛好するものから察することしかできないのだが、つまり太陽の光とそれを受ける葉緑というような、その純然とした素朴な自然な関係性からは、あまりに遠い社会の力学が彼の生まれ育った場と環境には強靭にあって、多分、彼はそれに引き裂かれ、そして決定的に受け入れられなかった。

 そして彼は多分、そこからどうしようもなく逃避した。平山は、現状では、掃除夫として仕事ができ、生真面目で有能だが、上流社会の所謂、強靭な、強者の正しさというものが絶対的に受け入れられなかったのではないか。(それは父という存在が、彼にとって過度に暴力的に映ってしまったのかもしれない。エディプスコンプレックスを抱えているのだというのは劇中からなんとなく察せられた。)そしてそこから止むを得ず逃避したことで、彼は親族、というか上流社会に今も身を置く、傷つけるつもりのなかった彼の妹を傷つけた。結果、妹は、兄、平山に対して複雑な思いを抱え続けている。(妹は上流階級の世界を生きているらしい、恐らく。それは家出した娘ニコを迎えに来た、付き人付きの高級車から察するしかないが。彼女は、兄を複雑な思いからどう受け止めていいか分からないままでいて、娘ニコにも説明し切れないでいる。しかし、彼女の娘のニコが、ある自分の置かれた階級からの一時的な逃げ口として、つまり娘の家出先として、結局は優しく受け入れ存在してくれている兄を、平山の妹はやっぱり彼を複雑に愛している。彼も同様に妹を愛しているし、姪のニコを愛している。)だから、平山は妹と会って最後、抱擁して泣くしかなかったし、自分のせいだと痛感しながらも、しかしそれでも自分の信念として、今の生活はどうしようもなくPERFECTなんだと思わざるを得なかった。つまりこのPERFECT DAYSはある欠落を伴っていること、それが故に成立していることを当事者は、当然、自覚しているのだ。

 つまり私の"PERFECT DAYS"は誰かの"PEREFECT DAYS"を毀損もしているという事実性が、この映画を観ている僕らをどうしようもなく貫く。平山の今の"PERFECT DAYS"は、彼の妹の"PERFECT DAYS"を毀損している。そして、鑑賞者の私たちの最高の日々はきっと誰かの最高の日々をどこかで毀損しているのかもしれない。

 そして、それは劇中において平山以外にも現れていて、仕事を勝手に辞めたタカシにとってある種、楽観的な無責任な心地の良い日々というのは、吉田葵さん演じるでらちゃんの(障害を持つ方)にとっての"PERFECT DAYS"を無自覚に毀損しているということ。でらちゃんは、タカシがそこにいてくれることが救い、というか日々の喜びであり、充足だった。が、タカシは無責任に仕事を放棄して勝手にいなくなってしまった。(ただ、しかし、彼には悪気はない。)結果、でらちゃんのPERFECT DAYSは失われることになる。

 平山はそこに結局、自己との、つまり自分を優先する結果が、誰かをどうしようもなく傷つけている、ある同質性を感じて、彼はいつになく、どうしようもない、やり場のない形で怒りを管理者にぶつけて露わにしたんだと、僕は思った。(一回見ただけなので時間軸が正確でないのでこの推察は間違っているかもしれない。ただタカシのその優しさの責任と、無責任について憤っているように思えた。そしてそれが平山の自己に反射した。)

 PERFECT DAYSと言明する裏には、人は結局、ある影を絶えず抱えている。これは欺瞞ではなく、正確な事実であり、そこを暗にというかきちんと描いているこの作品は僕にはすごく誠実に思えた。そして物語の後半に光でなく、影について語られる瞬間が来る。

 終盤、三浦友和演じる、行きつけの飲み屋の女将の元夫が出てくる。そして、海辺で、役所広司がやるせなく、一人酒とタバコを吹かしているところに三浦友和が現れ、自分が癌で余命がそれほどないことを語る。そして影についての話になる。そして、影が重なったらそれは濃くなるのかどうなのか、そんなこともわからんまま終わるんだな、ということを三浦が語り、優しい平山はそれをじゃあ今、試そうと三浦を誘う。影が重なって濃くならないなんてそんなことあるわけないじゃないですか、というようなことを語気を荒げて言った平山の真剣さは涙を誘った。それは推察するに、しかしまだ僕には完全には了解し得ない話であるのだが。つまり光が重なる話ならすぐに飲み込めたのだが。(影と影の交わりの濃さ、というのはネガが大きくなり、負が濃くなるとも取れるからだ。)しかし、その後、影踏みに照れ臭そうにも無邪気に興じる2人には、影という人生のどうしようもなく刻まれてしまう部分を、踏み遊んでどうにかするという、ようなある希望的な創造性を感じた。

 そして最後、映画の最後の最後に、我々に促すように、この作品の重要なモチーフが語られるが、それが全てを物語っていた。それは、木漏れ日である。光と影が同居した劇中のモチーフ。それは、日本特有の言葉であり、WIM WENDERS監督がこの場、この国とこの作品を選択した、きっと大きな理由のひとつなのだと思えた。光と影が同居しながら美しいものを描き揺れる、その状態こそがPERFECT DAYSなんだと感じざるを得なかった。


 それから。田中泯さん演じるホームレスの、つまり社会から外れ、世界と直接に身体的に交わっている、その全身詩人性というか、その姿への平山の深い敬意は、陽の光や緑への敬意と親しみと同じで、彼はホームレスのその姿に劇中何度も釘付けになっていた。光に包まれたように、映画中、時折に出現するその姿は美しく、”こつじき”という古語の意味するところの敬慕を感じた。平山は彼に比べれば社会に属して生きていて、社会から外れた、つまり世界の中を存在論的に生きる彼に深い敬意を感じているのだろうと思う。社会的な言語意識を外したところに、平山が眼差している美しい世界がある。今度は今度、今は今とニコと自転車を蛇行させながら言ったように、「今、此処」の微細さを眼差し愛し楽しむということがPERFECTな日々をつくる。それは、でらちゃんがタカシの”耳”が好きだという、つまり悟性(カテゴリー意識)を外して細部を深く愛するということでもある。また、ニコと橋の上で会話した時に、川が海に通じているというフレーズも、つまり個人個人はそれぞれが異なる世界を生きているけれど、その個々の世界は、全部海のように融け合って繋がっているということを言っていたようにも思えた。(ここはユクスキュルの環世界と環境との関係を言っていたようにも思う。)

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