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きっとピアノこそが心の交流、 辻井伸行さん

BGMとしてピアノ音楽をYouTubeから再生して聞いていると、ホーム画面でおすすめのチャンネルを紹介してくれる。その中に何度も登場するのが、辻井伸行さんの動画。ボストン、ニューヨーク、ベトナムやオーストラリアなど世界中で演奏をしている辻井さん。有名なホールでオーケストラと共演をしている動画ももちろん素敵だが、私は辻井さんが楽団や街の人と交流しているところを見るのが好きだ。

アシュケナージが指揮するアイスランド交響楽団との演奏。純粋に音楽と向き合うNobuを絶賛するアシュケナージ。そして、その後楽団の方々が、辻井さんをカフェに誘い、そこで即興セッションを行う。楽団のみんなが自然に引き込まれるように辻井さんの音楽の世界に入り込んでいく。

ウィーンの小さな教会での音楽会だろうか。楽団のメンバーの前で、ご自身で作曲された曲『風の家』をピアノで演奏。優しい風が心の中を通り過ぎるように、透き通るようなピアノの音色が響く。聴き入っている人たちに、自然と温かい笑みが浮かぶ。

アムステルダムのホテルオークラでは、サプライズでクリスマスソングのメドレーを演奏。スローテンポからアップテンポの曲まで、すっかりクリスマスの世界に包まれる。大人も子供も大勢集まって興奮、拍手の嵐。

こういう光景を見ていると、辻井さんにとっては、ピアノこそがコミュニケーションなのだ、人々との心の交流なのだと思う。

私が初めて辻井伸行さんのピアノを知ったのは、6年以上前、日本のトーク番組を見ている時だった。ゲストで出演した辻井さん。ドイツ公演の様子などが映像で映し出され、ピアノと真正面から向き合う姿に心を打たれた。そして、番組の最後で、司会者に向けてピアノで曲をプレゼント。辻井さんは、感謝の気持ちをピアノを弾くことで表現していた。この時から、私は辻井さんの虜になってしまった。調べてみると、半年後に辻井伸行さんの公演がウィーンであることがわかった。当時ウィーンに住んでいた私は、早速チケットを予約した。

2015年5月、ウィーンの楽友協会で行われたコンサートは、辻井さんのピアノソロコンサートではなく、佐渡裕さんが指揮するトーンキュンストラーオーケストラのコンサートだった。プロコフィエフの『ピアノ協奏曲第3番』のピアノ演奏が辻井さんだった。

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辻井さんのピアノを生で聞いたのはこの時が初めて。ただ音楽が好きなだけの素人の感想になるが、とにかくそれまで聞いたことがないようなピアノの演奏だった。あの硬い鍵盤を弾いているとは思えない、なんだかふわっと綿菓子のように消えてしまいそうなものから奏でられているような、柔らかく、優しい音が心に響いた。また、力強く迫力のある演奏なのに、鍵盤の重さが感じられない。奏でられる音の一つ一つが自然にスッと心に入ってきた。佐渡さん率いる楽団のみんなと、心を通い合わせた音楽がそこにはあった。プロコフィエフが終わった後、鳴り止まぬ拍手に、辻井さんのピアノはソロでアンコールに応じた。リストの『ラ・カンパネラ』。繊細な音を刻む細かい指の動き、そしてその軽やかさ。指揮者の佐渡さんも、ピアノのそばに座り、辻井さんの演奏を見守っていた。

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会場は満席。辻井さんの演奏が終わった後は、盛大な拍手とプラボーの声援が鳴り響いた。私も鳥肌が止まらない。このコンサートは、辻井さんにとってウィーンでのデビューとなるものだった。コンサートの前まで、辻井さんのことを知らない聴衆がほとんどだったという。それが、あんなに大きな拍手となって返ってきたのだ。私はロンドンに来てからも、何度かクラッシックのコンサートに行っている。そして、こんな私でもロンドンで改めて感じたのだ。オーストリアの、ウィーンの音楽に対する誇りの高さ、優雅さを。そんなウィーンの会場中のみんなの心が、辻井さんの演奏に、そして辻井さんと佐渡さんの素晴らしい情熱に心を奪われていた。

佐渡裕さんと辻井伸行さんは、それまでも幾度か共演していたという。佐渡さんに支えられながら舞台に登場する辻井さんの姿には、お二人の信頼関係が感じられた。また、佐渡さんは、その後ベートーベンの『交響曲第7番』を指揮された際、譜面も見ず、体が曲を覚えているように、自然に情熱的に表現されていた。とても素晴らしい演奏だったことは言うまでもない。

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ある時、辻井伸行さんとお母様が一緒に日本のトーク番組に出演されていた。幼い頃にピアノに関心を示した伸行さんを、ピアノの世界へと送り出すことになったお母様。その時、お母様が語っていた言葉が印象的だった。もしお母様ご自身が、音楽の世界に関係していたら、伸行さんの背中をピアノに押すことはしていなかったであろうと語った。音楽の世界で生きていくということは、好きという気持ちだけでできることではない。そんな概念が先行し、伸行さんにそんな大変な思いをさせたくないという思いでピアノから遠ざけてしまっていたかもしれない。視覚で味わう色の世界を知らない伸行さんが見出した、音楽という芸術、それを純粋に応援したいというお母様の気持ちがあったから、今の伸行さんはいる。

ロンドンに来てから、辻井伸行さんのピアノソロコンサートに行く機会が2回あった。ウィーンの楽友協会のような華やかな会場ではなく、小さなホールだった。辻井さんのピアノの演奏だけを聞くことができた。とても贅沢な時間。そして、再び辻井さんの可憐かつダイナミックなピアノに魅せられた。聞いている人たちの心に、辻井さんが奏でる柔らかいピアノが響き渡っていた。辻井さんのコンサートには何度だって足を運びたい。

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今回ウィーンでのコンサートのことを振り返るにあたり、6年前の当時、自分で記したブログを読み返した。ブログの最後には、こんなことを書いていた。
 
誰かの心に届くなにかを表現できる力、その力の種類や大きさは、きっと人それぞれに違うのだと思う。でもきっと、ほんの小さな力かもしれないけれど、そんな力は誰もが持っていると信じてみたくなった。

こんなことを思ったことを、今の私はすっかり忘れていた。「音楽は世界共通、音楽で会話ができる」と言う辻井さん。今もう一度、辻井伸行さんに教えてもらった情熱を思い出している。

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