ショパンの街 ワルシャワ
今ショパン・コンクールが話題だ。5人の日本人が3次予選へと進んだ。ピアノ曲が好きな夫はこまめにチェックをして、コンテスタントの演奏をオンラインで聞いている。私もピアノは好きだ。たまに自ら拙い曲を弾くこともある。
そして、ショパン・コンクールが開催されている時に、ワルシャワへ行ったこともある。けれど、ワルシャワのことがほとんど記憶に残っていないのだ。嫌な思い出は忘れる、都合よくできているものだ。
2010年のショパン・コンクール。当時ウィーンで旅行手配の仕事をしていた私は、ポーランドのワルシャワで行われるショパン・コンクールのツアーも扱っていた。日本側でコンクールのチケットを含めたグループ旅行を主催しており、ウィーン支店からワルシャワにある現地の旅行会社に手配を委託していた。コンクールのチケット、ホテル、送迎バス、全てが手配済みであった。そして1本目のグループが日本を飛び立ったその日、私のところに1通のメールが届いた。ワルシャワの手配会社の担当者クリスティーナからだった。
「私たちの会社が倒産しました。あなたたちのお客さんのホテルや送迎手配は、直接連絡を取ってください」
嘘でしょ? 私たちのお客さんはどうなるの? 私はパニックになった。
「私は何をすればいいですか? 手伝います」
その時の同僚の温かいサポートが、どれほど嬉しく、勇気づけられたことか。それからみんなで手分けをし、即座にやるべき手配を進めた。
そして、肝心のコンクールのチケット。これはだいぶ前から支払いも済ませ、すでに入手できていた。けれど、コンクールの後、受賞者で行われるコンサートのチケットだけは、まだ手元になかった。そこですぐさま上から命令が下った。
「すぐにワルシャワに飛んで、何がなんでもチケットを確保するように!」
そして、私はワルシャワへと旅立ったのだ。
ワルシャワへ降り立つのは初めてだった。空港からホテルへは、バスに乗った。ホテルの近くに停留所があるはずであった。目印にしていたのは、文化科学宮殿。バスの中からその目印の建物が見えてきたので、私はバスを降りた。しかし、歩き始めるとなかなかホテルが見えてこない。それに、近くにあると思っていた文化科学宮殿は、実際はまだかなり遠くにあった。想像以上の高層ビルであったため、視界に入った途端、焦って降りたが、まだ早すぎたのだ。それから更に10分ほど歩いて、ようやくホテルに到着した。
旅行をしていると、なんとなくこの街は相性が良い、ここは悪いと感じることはないだろうか。私にとって、ワルシャワは後者だった。なんだか不穏なイメージが頭の中にあったからかもしれない。
私たちが取引をしていた旅行会社は、かつての共産主義政権下の唯一の国営旅行会社だった。かなり規模が大きくしっかりしている会社であるはずだった。5年に一度しか開催されないショパン・コンクール。その時はチケットをはじめ、多くの手配を請け負っていたはずである。その時に倒産するなんて、おかしいではないか。顧客から集めた前払いの費用で負債を補填し、倒産を発表したということなのか。
また、その年2010年4月、ポーランドでは悲しい事故が起きていた。ポーランドのカチンスキ大統領夫妻や政府高官を乗せた政府専用機が、ロシア西部で墜落し、大統領を含む乗客全員96人が死亡した。第2次世界大戦中、旧ソ連軍によりポーランド軍将校ら捕虜約2万人が虐殺された「カチンの森」事件。その70周年追悼式典に出席する予定であった。墜落の原因は、濃い霧のために視界が悪かったためだと言われている。衝撃的な事故だった。この時、ワルシャワの旅行会社の担当者クリスティーナのメールには、ポーランド国民全員が悲しみに暮れていると書かれていた。
無事にホテルにチェックインを済ませ、仕事に取り掛かった。ホテルの担当者と会いミーティング。そして、まだ会社での処理が残っているというクリスティーナが時間を作ってくれたので、事務所を尋ねた。彼女は、まだ入手できていなかったコンサートのチケットも、きちんと私たちの会社用に手配はできているから安心して大丈夫だと言ってくれた。しかし、会社としてはその言葉だけを鵜呑みにすることはできない。翌日一般発売されるコンサートチケットを、とにかく1枚でも多く入手するべきだとの判断が下される。私と、日本からお客様のアテンドで来ていた別のスタッフらも合わせ、翌朝6時過ぎから並んでチケットを手に入れるというミッションが与えられた。だが結局、その時入手できるチケットは1人2枚までであった。
そんなドタバタ劇の中で、ワルシャワの街を歩いた写真が残っていた。それらの写真を見ながら、改めてワルシャワの街を振り返ってみたい。
ショパン好きが必ず訪れるショパン博物館。中を見学する時間はなかったが、ショパン直筆の手紙や肖像画が展示されているという。
ショパンは生涯、ほぼピアノの独奏曲だけを作った。『子犬のワルツ』『英雄ポロネーズ』『華麗なる大円舞曲』『別れの曲』など、作品名をあげると次から次へと出てくる。
ショパンの生家は、ワルシャワから車で1時間ほどのところ、ジェラゾヴァ・ヴォラにある。教師の息子として生まれ、子供ころにピアノを始める。そして16歳でワルシャワ音楽院に入学する。その後、21歳の時に活躍の場をパリへと移す。おしゃれで上品な着こなしをし、美しいピアノ曲を演奏するショパンは、社交界へもすぐに溶け込んでいった。そして、リストを通じてジョルジュ・サンドと出会う。当時ショパンは、ポーランドの貴族の娘マリアと婚約をしていたが、破局してしまい悲しみに暮れていた。そしてそれから、清純で育ちの良いマリアとは正反対のサンドに惹かれるようになる。
Wikiperiaに掲載されている写真。
流行作家として活躍していたジョルジュ・サンドは、ショパンよりも6歳年上。結婚していた時の子供が二人いた。サンドとショパンは、サンドの別荘であるマヨルカ島のノアンで夏を過ごし、冬はパリで過ごすという日々を送った。サンドは献身的に病弱なショパンを支えた。そして、サンドと一緒に過ごした8年の間にショパンは数々の傑作を残している。しかし、サンドの子供達を取り巻く家族関係に影が差し込んできた。そして、ショパンとサンドは離れ離れとなった。
サンドと別れてからのショパンは、作曲ができなくなったと言われている。そして、病に倒れ、39歳という若さで永眠する。
ショパンのお墓は、パリの「ペール・ラシューズ墓地」にあるが、ワルシャワの聖十字架教会に、ショパンの心臓が納められている。
今こうして振り返ると、ワルシャワの旧市街はかわいい街であった。
1944年ナチス軍に抵抗したワルシャワ市民の勇気を称えたワルシャワ蜂起記念碑。その迫力ある像に引き寄せられ、自然と足が止まった。
仕事を終え、空港へと向かった。その時も道を間違え、余計に歩いた。早くウィーンに帰りたい。そんな気持ちでようやく空港に着く。もうワルシャワに来ることもないであろうという気持ちから、残っていたポーランドの通貨ズヴォティを使ってしまうことにした。ちょうど余っていたお金で購入したものは、なぜかコウノトリがついたストラップだった。
ネガティブな気持ちで購入したはずだったのに、なんだか愛着が沸いてしまった。そして、この子がそれからずっと、私がワルシャワへ行った証として残っている。
クリスティーナが宣言した通り、私たちのチケットは、当初の予定通り無事に確保できた。他の旅行会社へ転職が決まったと言っていた彼女だが、突然自分が勤めていた会社の倒産を告げられ、動揺していたのは彼女の方であろう。
ショパンの曲を聴きながらこの記事を書き、万歳姿のコウノトリを見ながら今思っている。またワルシャワに行きたい。ショパン博物館も訪れ、クラクフへも足を伸ばしてみたい。なんだかウキウキしている自分がいる。
本日も長文にお付き合いいただきありがとうございました。
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