記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

『ドライブ・マイ・カー』私たちは相手の何を、どう理解すれば良いのか <★4.7/5、2022年4本目>

<映画情報>
『ドライブ・マイ・カー』2021年
監督: 濱口 竜介

<1文内容紹介>
妻を亡くした夫、母を亡くした娘、たとえ傷ついても相手に向き合い生きていく

<ネタバレ感想>


3時間ある映画を3回観たが飽きずに違った楽しみ方ができる、これだけでもこの映画が持つ力強さが伝わるだろう。

家福の喪失

本作の主人公家福は演出家である。彼の劇は多言語劇で、各役者が異なる言語で台詞を話す。だから練習では徹底した読み合わせがなされ、自分のみならず相手の台詞を頭に入れることが求められる。

そんな劇に役者として出演することもある家福は、自分が演じる役以外の台詞が吹き込まれたテープを使い、車中で練習するのを日課としていた。テープに吹き込むのは妻の音だ。

女優を経たのちに脚本家になった音の執筆は一風変わっている。音はセックスの後に物語を語り出す。家福は話を後に彼女に語り直し、それが脚本の核となるのだ。この映画は音が家福に同級生の家に忍び込む女子高生の話をするところから始まる。

この女子高生は、意中の同級生と直接向き合うことなく、相手のことを知りたいのだ。だから、自分の「印」と相手の「印」を家に忍び込んで交換する。この「直接向き合わない」というのが、この映画の一つの鍵になる。

脚本家として確固たるキャリアを築いてきた家福は、各地のイベントに招待されることも多い。この日もウラジオストックでの演劇祭に参加するために成田に車で向かっていた。ところが悪天候でフライトが延期となり、家福は家に戻る。そこで見たのは他の男に抱かれる妻の姿だった。だが音も相手の男も家福に気づかない。彼はそっとドアを閉め、何事もなかったかのように空港近くのホテルに向かい、フライトの延期は告げずに音と連絡をとる。パソコン画面越しの音は、普段通りの姿だった。

家福と音は娘を若くして亡くしていた。法要の後体を重ねる二人。音は先日の女子高生の話の続きを語って聞かせる。女子高生の前世はヤツメウナギだったのだ。翌日、いつものように家福に昨夜の話を覚えているかと尋ねる音。家福はふと覚えていないと答えて、出かけようとする。そんな彼に「今夜話がしたい」と音は告げるのだった。

なぜここで家福が話は忘れてしまったと嘘をついたのか、はっきりとした説明ができない。ヤツメウナギの話から何かを感じ取ったのだろうけど、音が「今夜話がしたい」といったことで、家福の不安は増してしまった。

家に帰って音と話すと、何かが変わってしまうのではないかと怖くてなかなか家福は帰ることができない。意を決して家のドアを開けると、音は脳出血で事切れていた。

広島での演劇祭

2年が経ち、家福は愛車で広島に向かっていた。演劇祭での演出を担当するためだ。映画祭期間中は万全を期すため運転を禁じられ、渡利みさきが運転手として付くことになる。初めは愛車を他人に運転されることが不満な家福。だが、彼女の運転技術を体感し、渋々了承する。

演劇では『ワーニャ伯父さん』を演じることが決まっているが、家福はその役者選びかならしなければならない。応募者の中には、かつて音のドラマにも出演していた高槻の姿があった。オーディションでは挑戦的な演技をし、希望していたアーストロフとは違うワーニャ役を得る。

音は一度高槻を家福に引き合わせていた。その時も若手俳優然とした態度だったが、あまりその印象は変わっていないようだ。

なぜ自分がワーニャ役を得たのかわからない高槻は家福をバーに誘う。ここで二人は音の思い出を語り合う。家福と音は同じようなことをしているような気がすると言う高槻。彼はまた、体の関係にならないと聞けないようなこともあると言うが、家福には理解されない。その後の読み合わせでも家福にダメ出しされてしまう。

高槻が音と家福の劇が似ていると話すのは的を射ている。映画冒頭のシーンを観てもそうだけど、音は家福に一方的に語るだけではない。家福は質問し、話を理解した上で、翌日音に語り直す。この家福と言うフィルターを通す過程が、二人の絆でもあった。

今回の家福の劇は、多言語劇であるのはいつも通りながら、手話で演じる役者であるユナがソーニャ役に採用されていた。ある日家福は夕食へ招待を受け、彼女の家を訪れる。家福は練習で困ることはないかと尋ねるが「私は見ることも、聞くこともできる。稽古で大事なのはそちらの方ですよね。」と逆に本質を突いた返答をされる。

ユナは「見ることと聞くことが稽古では大事」という後半にも関わる大事な言葉を発している。2年前、家福が咄嗟に「覚えていない」と嘘をつき、夜遅くまで家に帰ることができなかったように、相手に自分を投げ出し向き合うことは容易ではない。夫ユンもユナを日本に連れてくる時、ユナは日本語がわからないし話すこともできないからこそ自分が100人分聞くと決意したと語る。相手の言葉に耳を傾ける、これは意識しなければできないことだ。

ユナの家からの帰り道、家福とみさきは初めて長い会話をする。みさきは北海道出身で、母親を送迎するためにかなり若い頃から運転してきた。家福もいつも流しているテープについて説明する。「どんな真実も怖くないが、知らないことが恐ろしい」、音の朗読の声が車に響く。

演劇で「何かが起こった」

次の日、練習に向かう家福は、エレーナ役のジャニスを乗せて運転する高槻とすれ違う。気まずいのかスピードを上げる高槻。角を曲がると事故を起こしてしまっていた。事故処理で高槻とジャニスが来ないため、本読みを中断して動きのある稽古をする家福。だが全くできない。高槻とジャニスも遅れて参加するが、できない。ジャニスは相手のセリフも含めて学ぶことで、相手の行動をきっかけとしなくとも演技ができるようになると気づく。演者に本読みの重要性を体験してもらった家福は、再び本読みをするように呼びかける。しばらく経つと違いが現れた。家福が「何かが起こった」と表現する演技をユナとジャニスは成し遂げた。

このシーンも素晴らしい。家福の台詞を待つまでもなく、「何かが起こった」ことを鑑賞者は画面から理解できる。「何かが起こった」としか言いようがないのだが、確かにテキストで述べられている意味以上の意味を、鑑賞者はこの場面から感じ取れるのだ。それはソーニャのエレーナへの愛である。もしかしたら「何も起こっていない」演技をもこの映画は起こしてたから、この美しい光景が感じ取れるのかもしれない。

テキストに向き合うことで自分を引き摺り出す

高槻は再び家福をバーに誘う。ユナとジャニスの演技を踏まえ、「チェーホフには何かを起こす力がある」と家福は語る。そして「自分が引き摺り出されることにもう耐えられなくなったのだ」とも。高槻は確かに「自分を上手にコントロールできない」、だが「自分を相手に差し出すことができる。それが役者としては大事で、役者は自らをテキストに差し出し、テキストに応える必要がある」、だからこそ家福は高槻にワーニャ役の機会を与えたのだ。

家福の演出法では、テキストに真摯に向き合うことが求められる。これは初めのバーでの会話にもあった高槻の信条とは異なる。高槻は行為によって言葉を超えた理解を得ようとしているのだ。これは、戯曲のテキストという言葉に徹底的に向き合うことによって言葉自体を乗り越えようとする家福とは対照的だ。

バーでの話を終え、みさきの運転する車に乗り込む二人。家福は娘を失ってしまったこと、音は女優としての活動を止めたが物語を語り始めたこと、その物語が娘の死を乗り越えるきっかけになったこと、音には家福が覗き込むことのできない渦があり、彼女を失うことが怖かったことなどを語る。

高槻は、音は家福に話を聞いてもらいたがっていたのではないかと指摘し、彼が音から聞いた「ヤツメウナギ」の話、家福の知らない話の続きを語って聞かせる。「どれだけ理解し合っていても、愛していても、他人の心を覗き込むことは辛くなるだけ。でも、自分の心なら覗き込んで折り合いをつけられる。本当に他人を見たいなら自分を見つめるしかない」。こう語った高槻は、翌日になんと逮捕されてしまう、それも家福が誉めるような演技を残した直後に。短気が災いして、バーでカメラを向けてきた男を殴り殺してしまったのだ。

それでも生きていかなくては

突然ワーニャという主役を失った舞台。主催者は家福に代役を打診するが、家福は踏ん切りがつかない。考える時間が欲しい彼は、みさきに彼女の故郷を見せてくれるように頼む。

道中みさきはなぜ母を失ってしまったかを家福に語って聞かせる。山沿いの実家を土砂崩れが襲った。半壊になった家から這い出したみさきは母を助けに戻れなかった。母のみさきの扱いは決して良いものではなかったが、それでも母は母だ。みさきは未だに過去から踏み出すことができない。左頬の傷も消すことができない。

故郷に着き、家の残骸の眺めながらみさきは語る。「音さんをただ単にそういう人だったと捉えることはできない?家福を愛することも、他の人を求めたことも矛盾ない」。これを受けて家福は「僕は正しく傷つくべきだった。本当をやり過ごしてしまった。見ないふりをした、だから音を失った」と認める。「嘘をついたことを責めたい、耳を傾けなかったことを謝りたい、もう一度会って話をしたい」、だが永遠に叶わない。

このシーンで家福は「生き残ったものは死んだもののことを考えて生きていかなくてはいけない」とも語るが、この「生きていかなくては」という言葉は『ワーニャ伯父さん』の台詞とも重なる。

北海道から広島に戻り、家福はワーニャを演じる決心をする。映画のクライマックスは『ワーニャ伯父さん』のラストシーンでもある。ワーニャ「何て辛いんだろう、この辛さがお前にわかれば」、ソーニャ「生きていかなくては!長い長い日々と夜を、運命に耐えて人のために働きましょう。そして最期の時が来たのなら、黙ってあの世に行きましょう。あの世で神様に、どんなに苦しんだか、どんなに泣いたか、どんなに人生が辛かったかお伝えしましょう」

このシーンが涙が出るほど素晴らしかった。ソーニャは手話で演じる。だからこのシーンに音はほとんどない。ソーニャ役のユナが、手話で鳴らす音だけが響いている。これほど無音が心を打つことがあっただろうか。ユナの身振りが、眼差しが、音よりも遥かに雄弁にメッセージを伝えていた。私たちはこれまで言葉で何を伝えてきたのだろう。

正確には確認できていないけれど、この『ワーニャ伯父さん』の場面は、音を亡くした夜、家福が車で流していたものと同じではないか。家福はテキストに身を委ね、ワーニャを演じることで過去に向き合えたのではないか。

ラストシーン、みさきは家福から車を譲り受け、韓国に渡った。彼女の頬にもう傷はない。

このシーンはハッピーエンドとして解釈した。家福は現実を乗り越える力をチェーホフからもらい、妻との対話の場である車も不要になった。

家福: たとえ傷つこうとも相手に向き合う覚悟

冒頭でこの映画は3回とも違う楽しみ方ができると書いたが、それはどの人物に着目するかで受け取れるメッセージが変わるからだ。

まず家福だけに注目するのならば、これは傷つくことになろうとも相手に向き合うべきだったと彼が気づく物語だ。だが彼は何をそんなに恐れていたのだろう。知ることで音を今のように愛することができなくなることだろうか、音を受け入れることができなくなることだろうか。

車中で繰り返し流されるテープの台詞に「どんな真実も怖くないが知らないことが恐ろしい」がある。音は死んでしまった。しかしテープを通して家福に繰り返し語りかける。家福は録音以上のことを音から引き出すことができない。

みさきが最後に述べるように「そういう人」として、相手のあるがままを肯定できる人は多くない。私たちは己の信条を相手に投影してしまう。相手のあるがままの行動と、己の信条が結びついていないように感じたとき、目を背けたくなる、違いをなかったことにしたくなる、しかし家福の場合目を背けたことで音と対話する機会を永遠に失ってしまった。

相手と向き合うことで関係が壊れてしまう恐怖もあるし、高槻の言うように他者理解は畢竟自己理解を通じてなされるものだから、自分の嫌な部分を見つめ直すのも怖い。家福の気持ちは痛いほどわかる。一旦蓋をして自分を守りたい、でも一度した蓋を開けるのはより辛い。

さらに、あの日音と対話をしていれば全ての問題が解決したのか?音は家福の元に残ったのか?それはわからない。

家福は音の全てを覗き込んだとして、耐えることができたのだろうか?それもわからない。

家福と高槻: コミュニケーションへの異なるアプローチ

次に家福と高槻に着目するのならば、これは異なるコミュニケーション手法の話だ。高槻は体の関係を重ねることでより相手を「知る」ことができると語る。実際に高槻は家福の知らない音からの話を受け取っていた。またエレーナ役のジャニスとも、何も共通言語がないにも関わらず体の関係になっていた。

だが高槻のコミュニケーションスタイルには危うさが伴う。暴力的なのだ。ジャニスとのオーディションのシーンでも、かなり攻めた演技を見せていたし、何よりも写真を撮ってきた相手に喧嘩腰で臨み、殴り殺し、最後は逮捕されてしまった。そもそも高槻の行うセックスは、相手への「侵入」を必然的に伴う。相手をこじ開けるのだ。家福はというと、まだ言葉の力を強く信じている。こちらがこじ開けなくとも、相手の言葉に身を委ねるのだ。この高槻の暴力性は、彼が事件を起こしたことで悪い方向にも露呈する。コミュニケーションスタイルが異なる彼は、この映画の舞台から退場する。

家福とみさき: 相手を引き出す沈黙

家福とみさきの関係もある。みさきは口数少ない。それは無関心だからではない、相手をよく観察している。細やかに気を回すことができるからこそ運転が上手なのだろうし、ユナがソーニャ役であることをテープから見抜いた。高槻が音について語るのも、「これは少なくとも彼にとっての真実」とわかっている。

家福が徐々にみさきと打ち解けることができたのは、彼女の観察者としての技量が優れているからだ。彼女はよく見て、よく聞いてる。家福から北海道での言葉を引き出し、過去と向き合わせることを果たした。これは高槻流の「対話」では成し遂げられなかっただろう。みさきは相手に立ち入らない、だから逆説的に相手が引き出される。

劇中劇、劇中話の効果

劇中で引用される話が、意味を持つのも素晴らしい点だ。『ワーニャ伯父さん』は核となる劇中劇だが家福が「テープで台詞を確認する」という習慣を持つため、実際の演技のシーン以上に観客はこの劇に触れることになる。テープで流されるシーンが、サブリミナル効果のように映画のメッセージを補強する。真実を知らないことがどんなに恐ろしいか、家福を責める。

家福は多言語劇を演出しているという設定もとても効果的だった。家福が劇中でも示すように、相手に耳を傾けなければ劇は成功しない。役者は深く深くテキストに潜り、引き出される自分に向き合わなければならない。高槻の退場と家福がワーニャ代役就任が同時に起こり、私たち鑑賞者は高槻のコミュニケーションスタイルの否定と、家福が過去と向き合う覚悟ができたことを知る。

もう一つの鍵となるのは、音が語る女子高生の話。これは内面に起こった劇的な変化に本人すらも気づかないことを象徴しているのだろう。女子高生は同級生ヤマガの家に入り、初めは小さな変化を「印」として残すだけだったが、遂には空き巣を殺して死体を残してきてしまう。これだけ大きな変化を起こしたにも関わらず、ヤマガに変化は見えず、彼の家にも防犯カメラがついた程度だ。空き巣を殺したのは夢ではなかった、だがそれに対する反応は拍子抜けするほど小さい。私たちはこれほどまでに世界を変えることができないのか。「私が殺した」、防犯カメラに叫ぶ彼女の姿は、私たちのやるせなさを代弁する。

最後に

『ドライブ・マイ・カー』はたった50ページの原作を膨らませ、映画作品として昇華させた傑作である。多くのシーンが会話を基調とした淡白なものだが、要所要所にドラマチックな場面が挿入され、全く集中力が途切れることなく三時間画面に釘付けになる。また話を振り返るほどその緻密な構築に驚かされる。

「生きていかなくては!」というソーニャの無言の叫びにどれだけ勇気づけられるだろう。この時代にこの映画が生まれたことに感謝したい。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?