戦争ミュージアム体験③姫路にもあった捕虜収容所
今日も前回からの続き、姫路の捕虜収容所については最後です。
第二次世界大戦とアメリカ人捕虜
1942年、大阪俘虜収容所神戸支所広畑分遣所として兵庫県飾磨郡広畑町(現姫路市広畑区)に広畑捕虜収容所は開設されました。
捕虜たちは日本製鉄広畑工場での労働を課せられました。
終戦時収容人数は302人(米300,英1,豪1)収容中の死者16人でした。
収容所の生活は、天候にかかわらず、毎朝日本製鉄広畑工場まで約2㎞を行進しました。
工場での作業内容は石炭の掘削、くず鉄の運搬、荷物の積み下ろしなどの構内作業でした。労働時間は朝7時から夕方5時までで、休日が週に1日あたえられました(後に減らされた)。夏には監視付きで、近くの川で水泳を楽しむこともありました。
毎日の食事は米、麦、小麦粉、大豆のいずれかが600グラム程度と後に野菜の入った水っぽいスープといった内容で十分ではありませんでした。
そのため休日にはヘビやバッタ、カメやカエルなど食べられる動植物を採取するために水田の辺りを散歩することが許されていました。
それでも感謝祭やクリスマスには赤十字社からの救援物質を活用して豪華な食事を楽しむことができました。
捕虜たちは100語以内の郵便を本国に向けて送ることができました。
100字から150字のメッセージをラジオ放送することも可能で、捕虜が発信した郵便や電文は通訳が検閲して、本国に送られました。
アメリカから帰ってきた水筒
この水筒は、戦時中、広畑捕虜収容所で捕虜として3年間過ごした故チャールズ・ルイス・アゴスティネリ氏が、日本から帰還の際に持ち帰ったものです。
アゴスティネリ氏はアメリカペンシルベニア州出身。
第二次世界大戦で徴兵され、フィリピン・ルソン島のバターンに派遣されました。
1942年、コレヒドールで日本軍の捕虜となり、姫路の広畑捕虜収容所に連行されました。そこで終戦を迎え、1945年9月に解放されました。
2021年、NPO法人キセキ遺留品返還プロジェクトを通して、遺族から、元の持ち主へ返還したいため調査してほしいという連絡がありました。
その水筒は日本軍で使用されていたものでカバーに「ヤハタ」と記されていて、元は日本人の持ちものであったものを何らかの事情でアメリカへ持ち帰ったものと思われますが、水筒にまつわるエピソードなどはまったく不明とのことです。
厚労省へ調査依頼しましたが、手がかりはなく、水筒を持ち主へ返還するという希望は叶いませんでしたが、日本の人々に捕虜体験を知ってもらうことは意義があるということで、アゴスティネリ氏の捕虜当時の写真など数々の遺留品とあわせて水筒は、2024年、姫路市平和資料館に寄贈されました。
企画展には日本人が捕虜になったときのための「戦陣訓」が紹介されていました。
戦時中、日本の軍隊では敵方の捕虜になることは「恥」と考えられていました。
「戦陣訓」は日中戦争が長期化し、軍紀の乱れが問題になる中、当時の東条英機陸軍大臣が軍人のあり方を示した文書です。
そのなかの「生きて虜囚の辱めを受けず」の一節によって捕虜になることを固く戒めており、太平洋戦争で戦いが絶望的な状況になっても投稿せずに玉砕や自決することや動けなくなった傷病兵の殺害などが起こることにつながったと言われています。
また捕虜になった人を侮蔑する風潮を生み、このため捕虜になった外国人兵士への不当な扱いの原因にもなりました。
ソ連によるシベリア抑留についても紹介されています。
執筆者、ゆこりん