たまには本気でリンゴを追いかけたっていいじゃない。(リンゴ箱×シロクマ文芸部)
りんご箱を持った男が電車に乗った。白衣を着ていた。
東京郊外へ向けて走る電車は空いていたが、白衣を着た男は何も考えずに女性の横に腰かけた。
そして二秒後に女性の頭を指さして叫び出した。
「ぁぁあぁっぁああ!!あなたの頭に毒っ、ひぃ、毒蜘蛛がいます!」
女も反射的に叫びそうになったが白衣を着た男が静かにっと怒鳴った。
「ダメだ、下手に刺激してはいけない、私は毒蜘蛛学者のハッポンアシ・ハルヨシという者だ、年齢は46歳だ、その道のスペシャリストだから安心してくれ、そうだ、君の名前は?」
「え、えとえと、ハルガ・ナイと申します、対応してくださるのですか?私も蜘蛛には詳しいほうなのですが、何て名前の蜘蛛でしょうか?セアカゴケグモとかですか?」
「いや残念ながら、もっと強力な毒を有した個体だ」
「え、名前は?名前は?」
「ヒトカミヒャクニンゴロシだ」
「ちょっと聞いたことないです」
「それはそうだ、最近スロベニア辺りで発見された新種の毒蜘蛛だからね、毒蜘蛛学者でもない限り、まだ知らんだろうな」
ハルガ・ナイは命の危機というものを感じながら、どこか冷静だった。
それは彼女の人生が、彼女に対して何ら期待というものを持たせなかったことが起因している。
つまり、辟易しているのだ。
自分の命とか、世界とか、家族とか、誰が言い出した幸福の形とか、社会が取り巻いている煩わしさにうんざりとしているのだ。
『ごめん、ちょっとキモイわ、他に良い人いると思う、俺には無理ってだけだから、元気出せ?な?』
『本当に、ここが君の家なのかい?え?あ、あぁ趣味はそれぞれだし、ちょっと用事思い出したまた今度くるよ』
「いいかい、君の頭の上にいるヒトカミヒャクニンゴロシという蜘蛛は、噛んだ瞬間に空気中にも気化した毒成分物質を放出する、換気もできない状況だ、乗客は全員その毒に侵されて死んでしまうだろう」
「私だけならともかくそれは困ります」
「一つ方法がある」
電車の車輪の音の隙間から男が唾を飲んだ音が聞こえた。
男の額には汗が出ている。
「なんですか方法って」
「私がヒトカミヒャクニンゴロシを素手で潰すことだ」
「ちょっと待ってください、それだとハッポンアシ先生の命は?」
「危ないかもしれない」
「それなら……」
「説明を聞いてくれ、ヒトカミヒャクニンコロシの毒はケツフキウンコトシンという毒だが、人間の手にはそれを中和するトイレットペーパーキレカケトシンという菌が常在している、つまり、誰かが手で潰さなければ、電車の乗客は皆死んでしまうのだ、万が一失敗して私が噛まれても、私の手によって気化されかけた毒は中和されるから、私以外の被害は出ない、その他に助かる方法はない、さぁ目を閉じてくれ」
「……私が叩きます、自分の頭についた蜘蛛ですから、それに私はもう人生に疲れてます」
「わかる、私も疲れたよ、いささかね、たくさんの人生に振り回された、けれども、私の勝手な意見だが、私の愛する蜘蛛をそのような動機で潰してほしくはないのだ」
ハルガ・ナイははっとして大人しく目を閉じた。
もしも死にたくない理由があるとしたら、部屋に置いてきた愛しの我が子たちのことだ。
私が餌を与えなければ165種類いる蜘蛛は二カ月くらいで、みんな死んでしまう。
もう一度あの子たちに会いたい。私の人生って、それしかなかったから。
いろんな人たちが、私の好きな物を否定して去っていった。
一人で生きるのも疲れた。
一人で生きていくのかもしれないという考えにはもっと疲れた。
けれどもハッポンアシ先生が言うように、私の自滅的行為に、私の愛する蜘蛛を使うのは絶対に違う。
「準備はいいかい?」
「……はい、お願いします」
「いや、そうだ君にこれを渡そう、あとで食べなさい」
ハッポンアシ・ハルヨシは持っていたりんごの箱から、一つリンゴを取り出して、ハルガ・ナイの手の上に載せた。
「それはリンゴだ、うんと甘いよ、私が育てた、それを食べれば、少しは人生とやらの疲れもとれる」
「ありがとうございます」
ハルガ・ナイの頬は自然と緩んでいた。
ハルガ・ナイ自身は不自然な筋肉が不自然に動いたと感じていたが、それは彼女が数か月振りに見せる笑みだった。
「うん、君は美しい、君には明日がぴったりだ」
「え、私、色んな人からブスって言われてきました」
「君の顔の作りの評価なんてどうでもいい、笑顔というのは、それ自体が美しく、価値を持ち、尊いものなのだよ、えいっ」
ハルガ・ナイの頭には衝撃が走った。
ハルガ・ナイの心のなかにも衝撃が走った。
何かが一つ音もなく壊れてたような、衝撃だった。
ハルガ・ナイはゆっくりと目を開けた。
ハッポンアシ・ハルヨシは席から崩れ落ちていた。
「先生!?」
「成功だ、もう安心したまえ、おや、君の携帯のストラップのそれは、世界で一番大きいとされる蜘蛛のゴライアス・バードイーターか、旧約聖書の巨人からとった名前の蜘蛛だね、いい趣味だ」
またハルガ・ナイの心には何かが飛んできた。
方角もわからない、得体もしれない何かが飛んできて、刺さった。
「先生!?今救急車を」
「いや、いい、私の命は……」
「あんらハルヨシちゃん!急にどこかの車両に飛んでいったと思ったら、またごっこ遊びしてたの?」
「まぁま!!ごめんなさい、でもでも……」
「さぁ、降りるわよ、この駅で降りて、まだ買わなくちゃいけないものがあるんだから、先降りてて」
「うん、わかったよママ」
ふくよかな年配の女性が、ハルガ・ナイに礼儀正しく頭を下げた。
ハッポンアシ・ハルヨシはとぼとぼと電車を降りていった。
「ごめんなさいね、あの子、ずっと社会に馴染めなくて、派遣で働いているんだけど、今のところが交代勤務で夜勤もあってね、かなり参っているようなのよ、昔からリンゴと蜘蛛が大好きな変な子なんだけど、とっても優しい子なの、本当にごめんなさいね、いろんな人に騙されて、傷ついて、気づいたらあの状態になってしまったの、ごめんなさいね」
そういうと、ふくよかな女性も降りていった。
ハルガ・ナイは呆気にとられた。
何より驚いたのが自分の心が、かなり前向きにあらゆる方向に動きかけたことだった。
心の動揺を整理するために、ハルガ・ナイは、ハッポンアシ・ハルヨシに関して呟き始めた。
「え、何、派遣とか優しいとか知らないよ、私はこれからあと4駅電車に乗らなきゃいけないのに、こんなに恥ずかしい思いさせられてさ、知り合いだってこの電車よく利用するのに、明日も明後日も私これに乗るのに、そもそもなに、ヒトカミヒャクニンコロシって、私蜘蛛の図鑑持ってるし、種類もほとんど覚えているけど、そんな蜘蛛聞いたことないし、しょうもない嘘つきやがって、46歳にもなってママってきしょ、それにケツフキウンコトキシンってなによ、よく考えてみればケツとウンコしか言ってないじゃない、インチキよ、社会に馴染めないなんて私に関係ある?でも……あの人蜘蛛が好きなんだ、リンゴ私も好きだな、それも嘘かな?あ、でもこのリンゴすごく甘い、私の笑顔美しいって、明日が似合うって、ゴライアス・バードイータ―知ってたんだ、しかもいい趣味って、沢山優しかったな、それってあの人が繊細って証拠じゃない?あの人沢山騙されったって、本当に優しい人なんだ、初めて受け入れられたって感じたな、ああリンゴ甘いな、なんか私の心から音がしてる気がする、リンゴ甘っ」
電車の扉が閉じるベルが鳴る。
3口ほど齧ったリンゴと季節外れのマフラーだけが座席に転がっていた。
ハルガ・ナイは首元が冷えるのも忘れて走っていた。
改札の向こうでは春を迎えつつある東京郊外の薄緑がぼんやりと広がっている。
ぼやけた景色のなかを、ハッポンアシ・ハルヨシはりんごの箱を抱えてとぼとぼと歩いていた。
ハルガ・ナイはその背中に愛しさのようなものを感じた。
バカみたいと思いながら、何か人生に関わるチャンスに向かって走っている感覚で胸が満ちていた。
随分長い間、この『バカみたい』を忘れていた自分がバカみたいだと思った。
「ハッポンアシ先生!」
ハルガ・ナイは大きな声で、彼を呼んだ。
ハッポンアシ・ハルヨシは振り返った。
傾きかけた太陽のなかに、埃っぽり東京のなかに
ハッポンアシ・ハルヨシが抱えていたリンゴが振り向きざまに1つ落ちた。
コツンと音がした。
ハルガ・ナイの心のなかでも、何かが落ちる音がした。
そのままリンゴは人の足の隙間を縫って、転がり続け、
ハッポンアシ・ハルヨシを呼んだ声の主の靴にぶつかって止まった。
ハルガ・ナイと東京にはハルが来た。
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シロクマ文芸部様、またお世話になります。
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