【私説】良本の法則
まえがき
哲学や思想に関する本を読みたいものの、四方八方に広がりを見せる世界に途方に暮れていた矢先、noteでお尋ねしたら大変丁寧にご紹介いただきました。
読んだ本はこちら。
そしてご紹介いただいたのはこの方。
そして、遅読と書いたら身も蓋もないが、読み終わるのに2ヶ月もかかってしまった。
この場を借りて改めて感謝を述べつつ、今回は若干言い訳じみた私の思う読書体験、ひいてはタイトルに冠した『私にとっての良本の法則』を書いてみたいと思う。
私は読書で夢をみる
本を読む。
我々が幼い頃から繰り返している営為であり、その形態や意味は様々である。
その体験の質もまた様々で、時々良質な体験を得られることがあり、人はその体験をもって当該の図書を良本と呼ぶのだろう。
これは今回読んだ本の中でも触れられていたが、中身がわかることが必ずしも良い体験とは限らない。筆者の鶴見氏はもう一つ「おもしろさ」という指標を用いていた。それにとても共感しつつ、私は「浮かび上がってくること」を指標として挙げたい。
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何か出来事が生じた時に、自分の中で何かがスッと立ち登る感覚を得ることはないだろうか。
読書体験をしている時、文字を追って読解している自己と並行して、何か別の出来事を想起している状態である。想起している出来事は、読んでいる内容に直接的に関係していることもあるが、ほとんど関係していないこともある。(いや、実はどこかで関係しているのだけれど、それが分かりにくくなっていて、後々「あぁ、ここで繋がってたのか!」となったり、最後までならなかったりする)
想起したものは全く初めましてのものではなくて、どこか懐かしいものである気がする。自分の心の中の隅の暗がりにずっと居ながらも、その実、あんまり見えなくて、電灯のスイッチが入って、照らされて、その全体像と久々に出会うような。そこには驚きと安堵感と、少しの後悔が含まれている気がする。簡単ではない、微妙で繊細な感情群である。
この現象の特徴の一つは、何かと並行して起こることだと思う。その結果、微妙で捉えにくい。全体像を照らし出した明かりは長くは続かなくて、その像はまた暗闇に溶けていってしまう。そのため、何かが立ち上ったことは覚えているが、何が立ち上ったかは残りにくい。
これは夢に似ているのかもしれない。睡眠時の夢と同じではないとは思うが、他に程よい言葉がないし、儚さを表現するうえでも、夢という言葉のままにしておこうと思う。
◇◇◇
そういうわけで、私は本を読んで夢をみることがあって、夢を見れる本は良本だと思う。
ただそうなると必然的に読書に時間がかかる。
合間合間で浮かび上がってくる夢たちを掴んだり、逃したりしつつ、掴めたものについて思い巡らせてみて「あぁ!」と奥が動かされたり、最後まで何も得られず手ぶらで戻ってきたり、掴んだものが分からなくなったりするので、遅々として進まないのである。それだけ琴線に触れたと言えるのだけど。
余談だが、夢を見れない本もある。やたらと批判したくなったり、妙に同調したくなる本がそれである。前者は対立方向に、後者は同一方向に、自分の位置を固定される感覚があって、自由度や遊びがない。読後感はいいかもしれないが、体験そのものはどこか平面的な感じも否めないのである。
さて、本題…
そんなわけで中身の方に…
となるわけだが、きっとみなさんもうお腹いっぱいだと思うので、一旦ここまで。
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