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英語力より先に身に着けるべきこと

前稿では、東大に入ってもなお英語力に不安があり、日本の英語教育にも不備を感じている学生さんからの質問に対し、僕がどう答えたかを述べた。

僕の答えは2つあり、ひとつは「国の教育制度に頼らず、自分で英語力を伸ばそうとする」こと、もうひとつは「英語力よりも、国際的なコミュニケーション力をつけるべし」だった。

今日は後者について書きたい。

極論になってしまうが、僕は、個人が留学する理由や、親が子供たちを留学させる一番の理由は「英語(外国語)習得」であってはいけないと思っている。

十数年海外に住んで、仕事では英語を使っているが、僕はいまだに英語でのコミュニケーションは気が重い。面倒だし、日本語よりはるかに難しい。「ネイティブのように話す」ことなど一生できないと思っている。

英語さえ話せれば、日本にいるときと同じように、英語でコミュニケーションできる、という考えは間違いだ。それは極端に言えば、日本で行っているコミュニケーションと英語で(アメリカローカルでもなくイギリスローカルでもなく)国際的にコミュニケーションするのとでは、必要なスキルがかなり違うからだ。

日本で日本語でコミュニケーションするには、基本的に相手との関係性や場の空気を読むことから始めなくてはならない。敬語を使うか、一人称を私にするか俺にするか、ですます調にするか、カジュアルな話し方でいいのか、かしこまった話し方にするべきかなどを慎重に選択しなくてはならない。そしてそれは、相手と自分がどんな関係にあるか、そしてそこがどういう場なのかによって決まる。つまり空気(文脈)を読むことが重要だ。日本語は言い回しや使うべき単語が文脈によって決まる。

日本で僕たちは小さい頃から、それを叩き込まれる。そして、空気を完全に読めないうちは、自分の意見など言わない方がいいことを学習する。また空気を読んだ後、目上の人や上司や権力者など、「逆らわない方がいい人」がいるときには、論理的に間違ったことを言われてもそれを受け入れるべきということも、身をもって学ぶ。

以前紹介したクリティカルシンキングとは真逆のコミュニケーションの仕方を学習するのだ。

一方で、さまざまな背景や価値観の人が意見を交わしあう、国際的コミュニケーションの場では、意見を言葉に出して言わないことには始まらない。お互い価値観も宗教も育ってきた環境も違う。文脈などない。コミュニケーションによって文脈を作り出すのだ。そして黙っていては、コミュニケーションをとれない。そのために、人々は自分自身の意見を表明する。だが感情的にならないように、そして論理的で建設的な議論を目指す。何度も言っているように、そのためにはクリティカルシンキングが必須だ。

日本人が英会話を行おうとしてもなかなか話ができないのは、クリティカルシンキングを行って自分自身のロジックで意見を表明する、という訓練ができていないからだ。僕はそれをやる能力自体については日本人はとても高いと思っている。あとは英語で訓練するだけだ。

国際的なコミュニケーション能力を磨くにはどうすべきだろうか?僕の経験では、次の2つが重要だと思っている。

① 自分の日本語を論理的にする。
② 英語話者の中のコミュニティに入る

普段、日本語を話すときに、「自分は何をいいたいのだろう」と考え直して言い換えるクセをつけられるようにしておくことだ。例えばカジュアルな会話で「ちょっとそれはあり得ないよね」と友人に話したとしよう。それを日本語で正確に言い換えるのだ。

「ちょっとそれはあり得ないよね」は多分

「自分はそれを嫌いだし(そんなことしないし)、あなた(友人)も同意すると思う」

という言い換えになるはず。前者は直接英訳するのは難しいが、後者ならばもっと簡単に英語にできるだろう。

そしてこの時に非常に大切なことがある。日本語で言い換えるときに、主語、動詞、目的語、補語などをはっきりさせておくことだ。日本語ではよく主語を省略するし、目的語の助詞が一定しないことも多いからだ。上の例では、本当の主語は省略されていて、「それはあり得ない」の「それ」は目的語なのに「は」がついて主語の位置に来ている。

このように、自分の言いたいことを、英語ではなく日本語で、でも英語の構文と同じ構造で言い換える訓練をすると、今ある英語力でフルパワーを出せるようになる。

それがある程度できるようになったら、世界の誰かと英語でコミュニケーションをとってみよう。よくある1対1のオンライン英会話じゃだめだ。なぜなら、相手はネイティブだとしても、すでに「あなたの英語が低くても聞いてあげよう」という姿勢を持っているからだ。

少なくとも相手があなたのことを特別扱いしない人を選ぶか、複数人いるコミュニティの中で発言し、インタラクションできる場所を探すことが大切だ。

一番いいのは仕事に関する国際的なコミュニティに入ることだ。僕の場合は同じ研究者同士のやり取りになる。

しかし、日本で働いているとそうそうそんな機会はないだろう。ならば自分で探そう。好きなソーシャルゲームのパーティ、プログラミングが好きならばGithubでのやり取り、パートナーを探している人ならばTinder等のマッチングアプリでもいいので、自分のモティベーションが保てるようなコミュニティで、やり取りする機会を探す。その中で、特別扱いされず、フツーにコミュニケーションできるようになることを目指すのだ。

ここで一つだけ必要なメンタリティがある。恥をかく覚悟だ。かっこ悪くても、誤解されても、コミュニケーションに失敗したっていい。そこを離れても大した問題にはならないだろう。その体験こそが将来の財産になるはずだ。

昨日、俳優の小栗旬さんのインタビュー記事を読んだ。「ゴジラvsコング」で念願のハリウッドデビューを果たしたものの、悔しさしかなかった、という記事だ。英語を猛特訓して臨んだものの、結局足りなかったのは、英語力よりも演技者としてのプライドだったのかもしれない、と彼は述べている。

そして、今でも英語の勉強は欠かさず、次の機会を貪欲に待っているという。素晴らしいと思った。彼は日本ではもう人気俳優なのだから、日本に留まっていれば、イケメン演技派としてちやほやされるだろう。だがそれに満足せず、恥をかいてでもハリウッドに出ていこうとする姿勢は、本当に尊敬すべきものだと思う。

ネットでやりとりするのではなく、いきなりプロとして現場にいって国際的なチームに入って仕事をするのだ。その大変さは並大抵ものではないだろう。そこで小栗さんが直面したのは、英語もさることながら、俳優としての実力の見せ方だったのだと思う。自分の演技が本編に組み込む価値が低い、と判断されたことが、どれだけ彼のプライドを傷つけたか想像に難くない。しかし、それでも「次こそやる!」と思って続けることは、生半可な覚悟ではできないはずだ。

彼とは比べ物にならないが、僕の場合も、インターネットが普及する前だったため、渡米して現地にいきなり飛び込む方法しかなかった。今でこそ英語で授業や学生指導なんぞをしているが、留学当時は英語力がなくて、悔しい思いをたくさんしたし、いっぱい恥もかいた。くじけそうになって日本に帰りたいと思ったことも数知れない。だが、それはすべて今の糧になっている。

こういったコミュニケーション能力の訓練は、英語力よりも大事なものだと僕は思っている。英語力も相当大事なのは確かだ。だがそれができなければ英語力がいくらあっても、国際的に活躍はできないと僕は思っている。

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