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国際バカロレア留学の成功の秘訣(と僕が思うもの)ー2(クリティカルシンキング理論編)

前の稿では、子供の国際IB留学の成功のためには、先生やクラスメートの親と情報交換をしっかりすることが必要と書いた。

ここではもうひとつの重要事項、親自身がIB学習者になる(あるいはなろうとする)ことについて書く。

IBプログラムで掲げる学習者像は以下の10個だ。
①探究する人
②知識のある人
③考える人
④コミュニケーションができる人
⑤信念をもつ人
⑥心を開く人
⑦思いやりのある人
⑧挑戦する人
⑨バランスのとれた人
⑩振り返りができる人


この中の多くは、日本の教育でも実践されている(はずだ)。では、日本の教育とIB教育の間の差はどこで生まれているのか?

僕の個人的な意見では、最も大きな差は「クリティカルシンキング」にあると思っている。クリティカルシンキングができるか否かで、少なくとも①、②、③、④、⑥、⑨、⑩に差がつくと思っている。

さらに、クリティカルシンキングは、いまこの不確実な世の中で最も必要とされる考え方であり、論理的、科学的思考に欠かせないものだ。IB教育では、習った知識を自分で咀嚼して、アウトプットを出していく過程の中で、クリティカルシンキングを鍛えられるようにプログラムが組まれている。その考え方は一生モノだと僕は思っている。

つまり、子供のIB留学をサポートするためには、親もクリティカルシンキングを鍛える必要がある。それをすることで、親自身もIB学習者に近づける。それだけではない、クリティカルシンキングは、グローバル社会を生き抜く上で、ビジネスパーソンにとっても最重要となるスキルである。子供でも大人でもやっておいて損はないはずだ。

そのために、まず、クリティカルシンキングとは何かをはっきりさせておこう。

通常、日本語では「批判的思考」と訳される。そして多くの人は、この訳で誤解を抱いてしまう。批判的な思考なのだから、「言われていることの反対の立場で考えてみる」ということだと思ってしまうのだ。

この考えは、半分、いや2/3くらい間違っている。一番まずいのは「反対の立場」に立ってしまうことだ。ポジションを先に決めてはいけない。その後発展的な議論ができなくなるからだ。相手を論破するか、マウントをとることが目的になってしまう。それをやるのは「ディベート」だ。クリティカルシンキングではない。

ではクリティカルシンキングとは何か?

ネットで調べれば出てくるが、僕の調べたところ、結構その定義はばらばらで、かつ間違っている記述も多い(特に日本語のページでは)。正確に定義しているページもあるが、難しすぎてわかりにくい。だからここでは自分で腑に落ちる定義をする。僕自身はクリティカルシンキングを、


「言われていること(議論)を鵜呑みにせず、『なぜか?』という問いを繰り返し、議論の構造を明らかにすること」

と定義している。

どんな議論や主張にも、それが依拠している「前提」がある。その前提を「本当なのだろうか?」と掘り下げて考えていくのがクリティカルシンキングだ。議論の構造を深堀りし、暴いていく分析手法である。

例えば、「戦争をしてはいけない」という主張がある。それに賛成するか反対するかはクリティカルシンキングにとって重要ではない。その主張に賛同・反論したい気持ちは横に追いやって、まずは

「なぜ戦争はいけないと思うのか?」

という問いを考えるのがクリティカルシンキングだ。

そうすると、「戦争は殺人行為だからだ」という考えが答えの一つとして出てくるかもしれない(もちろん「答え」の候補はほかにもたくさんある)。

ここまでで「戦争をしてはいけない」という主張の論拠は「戦争は殺人行為だからだ」というの第一の前提となっていることがわかった。でもそこで終わってはまだきちんとしたクリティカルシンキングではない。次に「なぜ殺人行為はいけないのか?」を問わなくてはならない。

これにはいくつかの答えがあるだろう。「法律でいけないことになっているから」「人が殺されると悲しむ人がいるから」「基本的人権を犯しているから」などだ。そしてその答えそれぞれにまた「なぜ?」の問いを発するのだ。

それらの問いは例えば「法律に反することがなぜいけないのか?」「人を悲しませていけないのはなぜか?」「基本的人権はなぜ守られなければならないのか?」というものだ。一見、反倫理的だったり反社会的だったりするような問いに思うかもしれない。が、この思考は必要なものだ。

このレベルになると、問いに対する答えは相当複雑になってくるし、難しくなる。「法律に反することがなぜいけないのか?」には、例えば「法律を守らないものが多くなれば、社会秩序が崩壊し、皆が困るから」という答えがあると考える。

次の問いは「皆が困るとなぜいけないのか?」あるいは「戦争しない状態では皆困っていないのか?」「戦争をしない状態で一部の人が困っている状態ならばいいのか?」といったものになる。

さらに、ここで最初の問題に立ち返ると「戦争する際に法律があるのか(実際ある)」、「法律があるなら、その範囲内で行う殺人行為(戦争)はなぜいけないのか?」という問いがまた生じる。

そうすると「戦争をしてはいけない」という主張の背後には、いくつもの前提があり、その前提は(たぶん)主張する人によってさまざまであり、さらにそれらの前提(の中の少なくともいくつかは)、矛盾をはらんでいるか、脆弱だということがわかる。

繰り返すが、だから戦争をしていい、と言っているのではない。戦争をしてはいけない、という議論の構造を明らかにしているだけだ。「戦争をしていい」という主張についても、クリティカルシンキングを行ってみるといい。やはり、矛盾や脆弱性が出てくるはずだ。 

クリティカルシンキングとは、このように「なぜ?」の問いをできるだけ深いレベルで発することで、議論の構造をみる分析手法である。

そしてお気づきのように、社会問題に関してクリティカルシンキングを進めていくと、問いは哲学的問題になっていく。つまり、幸福(あるいは不幸)とは何か、人権とは何か、公平(不公平)とは何か、差別(また平等)とは何か、という、人類が普遍的に問うてきた問題に突き当たることになる。

当然ながら、そこに究極的な答えはないし、あったとしても一朝一夕にたどり着けるものではない。だが、クリティカルシンキングの重要性は、答えそのものにあるのではなく、答えに近づこうとするための論理力と、問いの豊富さ、深さ、そして思考や議論のしくみを明らかにすることにあるのだ。

なぜそれが重要なのか?それができると、本当の意味での「クリエイティブな議論」ができるからだ。

クリエイティブな議論とは、ドイツの哲学者、ヘーゲルの提唱した弁証法である。弁証法をまともに論じると、とてつもなく長くなるので、超簡単バージョンで紹介する。

①あるアイディアA(時間がないので仕事を一刻も早く片づけたい)がある
②それに対立するアイディアB (時間がないのに腹が減って仕事に集中できない)がある
③AとBは対立しており、矛盾している。議論と思考を通して、しかしそれらのどちらも克服できるような新しいアイディアC (カップラーメン食べながら仕事する!)を生み出す。

これが弁証法だ。この「昔の矛盾するアイディアを乗り越える新しいアイディアを創造する」ことを、ドイツ語でアウフヘーベンと呼ぶ。日本語では止揚とか揚棄と訳される。数年前、どこかの政治家がやたらアウフヘーベンと言っていたので耳にした人も多いかと思うが、本来は哲学、論理学の用語だ。

この例は単純すぎるが、実際の議論ではAとBがどのように、どの部分で対立しているかを注意深くひも解く必要がある。そのために不可欠なのがクリティカルシンキングなのだ。

このように創造的なアイディアを生み出すためのスキルとしてクリティカルシンキングが重要になってくるのだが、それができるためには、以下のことが必要になる。

・クリティカルシンキングによって思考を深めようとするモティベーションが必要(①探究する人)
・議論を考える背景となる知識が必要(②知識のある人)
・論理的な思考力が必要(③考える人)
・適切な言語で対話をし、クリティカルシンキングができるスキルが必要(④コミュニケーションができる人)
・特定の立場に固執せず、自分とは反対の議論でも聞く姿勢が必要(⑥心を開く人)
・特定の議論に偏らず、どの考えもフェアに考える姿勢が必要(⑨バランスのとれた人)
・自分の矛盾点や前提の不備を感情的にならずに直視できることが必要(⑩振り返りができる人)

つまりIB学習者の資質の多くが、クリティカルシンキングをするための条件となっていることがわかる。

近年、教養についてのビジネス書やマイケル・サンデルの本に代表される哲学書が流行っているのは、クリティカルシンキングには、幅広い知識と哲学的思考が必要で、かつグローバル社会の問題を解くためにも必要だからだ。だが、それだけでなく、上記のIB学習者の資質をきちんと持っていないと、すぐ感情的になったり、個人の人格攻撃になったり、クリティカルシンキングのつもりがディベートになってしまったりする。

経済が世界規模になれば、問題も世界規模だ。だが、温暖化の問題についての知識も見解も前提も、さまざまな国や文化や地政学的位置で変わってくる。それぞれの話している主張の構造を明らかにし、かつ冷静に議論なければ、問題解決は進まないのだ。その意味で、クリティカルシンキングはこれからますます重要になるだろう。

そして僕がIB教育が優れていると思うのは、そのクリティカルシンキングを無理やり教えようとするのではなく、実践の中で、自然にそうなるように導いている点だ。

例えば、環境問題について習った娘は、アンケートを作成し、いろいろな人に環境にやさしい行動をどの程度しているかを尋ねた。そこでわかったことは、皆環境は大事だと答えていながら、分別行動やカーシェアリングといった行動を、実際にはあまりとっていないという事実だ。

そうすると娘は「環境問題を知れば解決できるわけではない」ことを知る。アンケートを作る前には、自分が「人は環境問題の重要さをわかればエコな行動をとるはずだ」という前提を持っていたことを「思い知る」のだ。

このようにIBの課題を行えば、クリティカルシンキングをせざるを得ない。以前にも書いたようにIBでは知識を得た後のアウトプットをいかにリッチなものにするかに重点を置くが、そのためにはクリティカルシンキングは避けて通れないようになっている。

だが、日本の教育では、残念ながらクリティカルシンキングのシステマティックな訓練はほとんど行われていない。

IBはクリティカルシンキングの基礎を教えてくれるプログラムだが、クリティカルシンキングを本格的かつシステマティックに鍛えるのは、本来大学教育だ。世界の一流大学と比べると、日本の大学はクリティカルシンキングをきちんとトレーニングしているとは言い難い。

そして、これも日本人には誤解されがちなのだが、クリティカルシンキングは「勉強して学ぶ」ものではない。フィジカルトレーニングと同じように、対話し、議論し、考え、実践を通して「鍛える」ものだ。日本では教育者の中にさえ、それをわかっていない人がいる。

これは本当にあった笑い話だが、日本の某有名大学の先生が、アメリカの一流大学の先生に「授業でクリティカルシンキングを教えたいのだけれど、どうしたらいいだろうか?」と尋ねたそうだ。アメリカの先生はそれに対して「大学の授業はすべてひとつ残らずクリティカルシンキングを鍛えるものだよ。その質問はナンセンスだ」と返した。

日本の一流大学の先生でさえ、クリティカルシンキングが実践である、という基本的なことがわかっていない。その先生は、自分が実践できていないことを晒しただけなく、クリティカルシンキングの本質さえも分かっていなかったことになる。

だから日本の学会の中には悲惨なものが少なくない。クリティカルシンキングの訓練を受けていない同士が議論するのだから、議論にならない。学者同士のマウントとりに終始するか、議論とはかけ離れた感情的な個人攻撃になりがちだ。それが怖いので、皆質問もせずじっとしているか、「〇〇(全然関係ないこと)についてはどうでしょうか?」的な、意味のない質問しか出ない状況を僕は何度も見てきた。

僕は、それでいてもなお、日本からノーベル賞学者が多く出て、かつ日本の大学が世界ランキングにもそこそこ顔を出しているのはスゴイことだと思っている。つまり、日本にはポテンシャルとしてクリティカルシンキングのできる人材はたくさんいるはずなのだ。

つまり、もし初等教育のころから、多くの子供たちにクリティカルシンキングを訓練していたら、日本人はもっと飛躍できるはずだと思っている。そしてそれは文科省がIBの導入を試みている理由のひとつでもあると考えている。

しかし、昔の日本の教育制度で育ってきた僕を含む親世代は、クリティカルシンキングの訓練を受けていない人がほとんどだ。子供をIBプログラムに入れたいのであれば、親もみずからクリティカルシンカーになろうとするべきだろう。

そのためにはどうしたらいいのかについては、僕自身の経験からいくつかアイディアがある。長くなるので、次の稿で述べたい。

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