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国際バカロレア教育の難点

これまで、記事で、僕の考える国際バカロレア(以下IB)教育の本質と優れた点を紹介してきた。

でも、もちろん問題もある。2人の子供にIB教育を受けさせている親として自分が体験している。

ここでは、IB教育にどんな問題があり、どう克服するかを実体験をもとにご紹介したい。

僕が思うにIBの問題は大きく3つある。

1:親の負担が大きい

子供にIB教育を受けさせて一番驚いたのは、親がやらねばならないことが多い、ということだ。

まず、子供たちの通う学校では、イベントが多い。コロナ前は、月に1度か2度、何かしらのイベントがあり、それに出席することが求められていた。コロナになってさすがに頻度は減ったが、それでもオンラインイベントはちょくちょくある。

コロナ前の例をだそう。

学期はじめに先生との顔合わせ会があり、各学期の最後にはラーニングセレブレーションという発表会がある。これは学期ごとに各学年が持っている学習テーマ(例えば、環境問題)について、それまで勉強したことの発表会だ。

IBではUnit of Inquirer という授業があり、現実にある問題をテーマに皆が勉強する。そして英語や数学、科学などの基礎科目授業はそのテーマに連動している。例えば、環境問題がテーマならば、習う英単語もenvironment、 pollution、 greenhouse effectなどの関連語になる。数学でも液体の濃度計算(汚染物質の計算)を習ったり、科学では環境を破壊する物質のことを習ったりする。

そして前にも書いた通り、生徒たちに求められるアウトプットはそれらの知識を正確に身に着けることだけではない。それらの問題がいま世界でどう対処されているか、そして自分たちはどうすべきかを考え、それをパワーポイントでプレゼンしたり、ジオラマを自分たちで作成したり、オリジナルの歌とダンスを作ったりして、父兄に披露する。知識をいかに魅力的にプレゼンするかまでが求められることだ。

なので、父兄はそのラーニングセレブレーションの現場に行って、生徒たちのアウトプットを見聞きすることはもちろん、それに至るまでのプロジェクトについて、生徒をアシストしなくてはならない。

例えばジオラマを作るならば、そのためのマテリアルを親が揃えてあげるが、企画が生徒たちによって違うので、何を揃えるべきか、子供と話し合って決めなくてはならない。「環境問題」のようなテーマでジオラマを作る時は、「環境にやさしい素材か、リサイクル可能な素材だけをつかう」という縛りもある。その中で、親子ともども知恵を絞らなくてはならない。

日々の宿題でもそうだ。習ったことをドリルで練習するだけの宿題もあるが、それに加えて習ったことに対するリフレクションの記入や、それを使ってポスターを作る、といった課題も頻繁にでる。その度に、子供たちが何をやっているのか、何が必要かを知り、アシストしてやらねばならない。

小学5,6年になって、そういった宿題も自分でできるようになるまでは、このプログラムは親にかなりの時間的負担を強いる。事実、僕の子供の通う学校では、それが不満で、子供を別の学校に転校させてしまった親御さんも多い。

このラーニングセレブレーション以外に、学期最中に頻繁にイベントがある。主に文化的行事だ。これはマレーシア特有なのだと思うが、マレーシアは多民族多宗教の国であるため、ムスリム、ヒンドゥ、仏教、キリスト教の宗教的イベントがある。その度に学校ではミニ学芸会のような催しが開かれる。

例えばムスリムの祝祭では、その由来や伝統を高学年が発表し、低学年はそれに関係する歌やダンスを披露したりする。その宗教にちなんだ民族衣装を着ることも求められるので、探して買いに行かなくてはならない。そんなに高いものではないので、金銭的負担は大きくないのだが、いちいち探すのがなかなか大変だ。しかも、身にくる父兄にもその民族衣装を身に着けることが推奨される。文化への敬意のためだ。

なので、そういうイベントは、ちょっとしたコスプレ大会みたいにもなる。ムスリムの祝祭ではマレーシアのバティックなどを使った民族衣装を、ヒンドゥの祝祭ではインディアンドレスを、チャイニーズニューイヤーではチャイナドレスが推奨され、先生も父兄も着る。もちろん強制ではないので、普通の服の人もいるが、皆結構楽しんでいる。その上、学校はファッションコンテストを開き、各学年の男女と父兄の中からベストドレッサー賞を決めて、ちょっとした景品まで渡すのだ。

そういう意味では楽しいイベントだが、こういう文化的祝祭イベントだけで年4-5回あるため、負担は大きい。

もちろんこれらはただのイベントではなく、文化的、宗教的な特徴を学び、お互いを尊重することを学ばせるためでもある。多様な価値観や宗教的背景をもった人々と、いかにしてうまくやっていくか、その実践の基礎となるものだ。ダイバーシティの重要さが、社会や経営の中で増していく中、このような実践的学びは、とても貴重な機会だと僕自身は考えている。

だから、イベントにはできるだけ参加するが、その時間的都合をつけるだけでもなかなか大変だ。結果として、いつもイベントに参加し協力的な親と、そうではない親がはっきり別れてしまうのも特徴だ。

 2:地域による差が大きい

IBは、一般的なプログラムをしっかり持った上で、ローカリティもまた大切にするプログラムなので、現場の裁量に任せている部分が結構ある。上記にあるように、マレーシアは多文化社会なので、それに則したイベントが行われるが、日本のIB学校ではそのようなことはしないだろう。

それは、それぞれの学校で特色が出せるという利点を持つ反面、時々学校によってはあるプログラムがおろそかになるという欠点も持つ。つまり学校間のバラツキが大きいのだ

僕の子供たちの通う学校は、KLに2つキャンパスを持っている。ひとつは「本校」で、学生寮まで完備した大きなキャンパスだ。学生数も多く、グラウンドやプールなどの設備も充実しており、バレエやクラッシックコンサートを行えるクオリティのホールもある。

一方、分校である僕の家の近くのキャンパスにはそのようなホールもなければ、プールも、寮もない。体育の授業で水泳はできない。音楽の授業も行える場所が限られる。図書館も本校に比べれば貧弱だ。

そういう設備面でのバラツキもあれば、プログラムのばらつきもある。マンモス校である本校では、オーケストラを組んで楽器演奏をしているが、僕の子供たちのいる学校は、オケを編成できるほどの人数には達していない。そのため、楽器は主に個人練習のみとなる。

逆に分校の利点もある。規模が小さい分、クラスは少人数だ。今の学校では、1クラス最大で25名と決められている。現在、2人の子供のクラスは、それぞれわずか8名だ。これにはコロナ禍での特殊事情が重なって少なくなった経緯があるため、いつもより特段に少ないのだが、それでも1クラス20名を越えることはまれで、その分先生方の目が十分にひとりひとりの生徒に行き届くという利点がある。

学期の終わりに、親と先生の2者面談が催されるが、そのときには先生が自分の子供たちを実によく見てくれていることがわかる。ひとりひとりの事情や能力に応じたケアもしてくれるのだ。

だが大人数クラスになるとそうもいかない。どうしても、先生のケアは手薄になってしまう。

3:先生によるバラツキも大きい

IBスクールの先生は、IB教育者のための特別プログラムを経て、資格を取得している先生ばかりだ。だが先生によって、コミュニケーション力や生徒指導の仕方には大きく差がある。

僕の子供が通っている学校の場合、小学校は基本的に1学年1クラスの少人数制だ。そして、各学年の担任は、異動がない限り固定されている。つまりA先生が1年生の担任ならば、翌年の新1年生もそのA先生が担当する。生徒側にしてみれば、毎年決まって担任の先生が変わるが、どの先生が次の担任かはわかっているという状態だ。

そうすると、先生による差がよく見えてくる。生徒とは仲良しだが、カリキュラムは大幅に遅れて所定のプログラムを終えられない先生や、生徒の行動の隅々まで目を配って、個々の生徒にあった指導をしてくれる先生など、良くも悪くもその先生の個性が出る。

生徒はまだ小さいので、先生との問題を起こすことは少ないが、新しい担任の先生と親が諍いを起こすと大変だ。僕は熱心でいい先生だと思っていても、「宿題の量が多すぎる」と文句をいう他の親もいる。それがエスカレートした「モンペア」はマレーシアにも存在する。先生たちにとっても、親との対立は神経をすり減らす仕事で、良い先生なのにそれに耐えきれず辞めていった人も僕は知っている。すべての先生とすべての親がうまくいくことは、あり得ないので、結局学校では必ずどこかで親と先生との諍いが起きているのだ。

このことは、IBプログラムの性格上仕方のないことなのかも知れない。だが、僕の経験では「こんな先生には子供を預けたくない」とまで思う先生はいなかった。学年が変わるたびに、子供のクラスメートの父兄と「〇年生のときの先生は良かったね」などと話すことはあるが、理解のある親は「子供の個性を伸ばすIBプログラムでは、先生の個性もまた殺されるべきではない、という視点に立っている。

つまり、親もまた先生の個性を知り、子供とともにその個性と付き合う術を身に着ける、という学習プロセスが求められるのだ。やっかいなのは、親のほとんどはIB学習者としての訓練を受けたわけではないため、モンペアやそれに近い親も一定数でてきてしまうことだ。

そういった問題の処理は、小学校、中高学校の各部門の責任者(日本でいえば教頭)が行う。親のクレーム、先生の愚痴などの問題を一手に引き受け、先生のエネルギーを生徒指導に向けられるようにする。

親の立場からすると、各学年ごとに先生の個性を知り、効果的なコミュニケーション方法を考え、常に子供に「先生はどうだった?」と尋ねて情報を得ておく必要がある。ありていに言えばめんどくさい。だが、親としてそれをやらなくてならない。子供はもっと大変だからだ。

簡単に言えば、子供をIB学習者として育てるためには、親もまた子供とともにIB学習者の修行をするつもりで臨む必要があるのだ。その覚悟を持てないならば、子供をIBプログラムに送るのはお勧めしない。

以上が、IBプログラムの3つの問題点だが、実はもう一つ記してお置きたいポイントがある。

日本で求められる「知識を正確に吸収し、与えられた問題を正確に解く」というタスクにおいては、その能力はあまり高いとは言えない、という点だ。つまり、IB学習者として優秀だからと言って、日本の小中高に転入してもよい成績が得られるとは限らない。

正確に言えば、IBは知識の試験での正確かつすばやいアウトプットよりも、それをクリティカルシンキングを使って吟味し、自分なりに消化し、それをさまざまな形で発表することに重きを置いているので、日本での評価のコアになる「試験の成績」の比重が低いのだ。

で、これを問題と見なすかどうかは、親次第だと思う。

僕は、少なくとも経済界が文科省に働きかけるほど、IB学習者の「社会人としての価値」が高いのならば、日本型の評価はすでに限界が来ているのだと思っている。したがって、僕自身はこれを問題点とはみなさない。

だが、もし何かの理由で、一家そろって日本に戻ることになり、子供たちのが日本の学校に行くことを想像すると、それはそれで不安があることも確かだ。

結局、やっぱり最後は親の覚悟なのだと思う。IB教育の個性をメリットとみるかデメリットとみるか、ある意味親が試されているかもしれない。


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