~元ぎゃるお先生,現る~ 第2話
みなさまごきげんよう,ベルです(ベルさんごめんなさい)。
初回の連載では
「好きなアニメに「うまるちゃん」入ってないやんけ」
「好きなアニメに「まどマギ」入ってないやんけ」
「好きなアニメに「めぞん一刻」入ってないやんけ」
等々,友人たちから散々な言われようでした。
だが,それがいい。
ギャル男は何故強いと思う。
それはギャル男だからよ。
たくさんのコメントお待ちしております。
TwitterやInstagramでの拡散もよろしくです。
それでは第2話,開園の時間です。
~元ぎゃるお先生,現る~ 第2話
2.幼少期~十数年続けてきたサッカー部を退部した高校3年春まで
■出生~小学校
私は1989年11月22日に母方の実家がある奈良県で生まれました。全く記憶はありませんが、その後すぐに親の仕事で韓国へ行き、高熱を出して生死をさまよったとかそんな話を親から聞いたことがあります。その後、成田市の幼稚園に入園。幼稚園の頃の記憶がほとんどないのですが、幼稚園の頃から廊下を走りまわって先生に怒られたり、こぶとり爺さんの演劇では主役に立候補するような腕白坊主だったと思います。この幼稚園が面白かったのは、部屋の中で友達とけんかになった時の先生が放った一言。
「喧嘩は外でやってきなさい! 」。
今のご時世だとあり得ないですよね(笑)そのまま僕らはつまみ出されて砂場で体力がなくなるまで喧嘩していました。あと、幼稚園の頃はドラゴンボールのカード集めに夢中だったなあ。親からもらったお小遣いで近所のショッピングセンターに行ってカードを買ってました。
そして、この頃に私はサッカーを習い始めます。私は地元のサッカーチームである成田サッカースポーツ少年団(通称:成田SSS)に入りました。成田SSSは地元の子どもたちとその父母で運営しているサッカーチームで、とにかくみんな仲が良く、かつ、私たちの代は自己主張が強い子どもが多かったので、良くも悪くもここで今の負けず嫌いな性格が形成されたといっても過言ではありません。成田SSSで出会った友達とは今でも親交があるんですが、とにかくサッカーが楽しくて仕方なかったです。毎日が楽しかったからか、この頃、将来の夢はサッカー選手になることなんだと親や友達に言い始めました。毎週休日にユニフォームを着て友達と住んでいるマンションの集会場にチャリンコで集合、そのままサッカー場までみんなで一緒に向かい、コーチ指導のもとでトレーニングの日々。あのコーチがねえ、いちいちキレてくるから当時は本当にムカついてて何回も「うっせーよ。おまえの言うことなんか聞かねえ」みたいな反発をしていたような気がしますが、今ではいい思い出です(数年前にお酒を飲みましたね。元気にされているでしょうか)。ポジションは基本右ハーフ、たまにトップ下かボランチ。守備とかめんどくさいって思っていたので、全然守備せずひたすら攻めてたなあ。だから、怒られていたんだなあ(笑)。ちなみに、サッカー選手を本気で夢見ていたのですが、サッカー好きなら手を出すであろう、ゲーム『ウイニングイレブン』には全然はまりませんでした。1998年フランスワールドカップのウイニングイレブンは初代プレステでプレーしましたが、見るよりやる派だったので、それ以降は全然やりませんでしたね。後はそうですね、幼稚園から小学校を通して、私はよく家の近くの森に友達とカブトムシを取りに行ったり、近くの池にカメや魚を捕まえに行ったり、とにかく昆虫や動物が大好きな子どもでした。そういう昆虫がいる場所ってスズメバチみたいな危険な昆虫がいるから危ないじゃないですか。でも、そんなのお構いなし。
学校終わりにTシャツ・短パン・サンダルで友達とチャリンコこいで昆虫を捕まえに行き、捕まえた数で競い合い、終わったら駄菓子屋さんでチューペットみたいな凍った棒状のゼリーを買って食べ、遅くなるまでサッカーをして遊ぶ。
そんなわんぱくな毎日。
要は、明るい元気な男の子でした。
他方、今でこそ、クラスの学級委員や委員会活動の委員長なんて絶対にやりませんが、子どものころの私はといいますと、率先して学級委員をやるようなタイプでした。幼稚園では演劇の主役をやっていたわけですが、小学校では学級委員という形でクラスの真ん中にいたわけです。私の通っていた小学校ではクラス委員を決めないといけなかったんですね。でも、クラスって、いろんな人がいるから大抵まとまりがないじゃないですか(私のいた学校だけかもしれませんが)。合唱コンクールなんて、歌う人もいれば歌わない人もいるからまとめるのが大変。今の私なら、絶対にやりたくない。でも、当時の私はやっていた。
なんででしょう。不思議です。
多分、昔は自己承認欲求が強かったのかなと思います。クラスの中心になればみんながついてくるじゃないですか。自分がついていくんじゃなくて、自分にみんながついてくる感覚。
まあ、当時の気持ちを明確に覚えていないので、推測に過ぎないんですけどね。
他方、けっこう思い通りにいかなかったらすぐ喧嘩するようなけんかっ早い一面もあったと思います。なんだろう、怒りの感情を上手く抑えられなかったんです。
うちの小学校の同学年には大きく分けて3つのグループがあったんですが、とにかく休み時間にどこかのグループの人同士が対立して喧嘩が始まる。私もけっこう喧嘩をしたと思うのですが、ガキ大将だったんだと思います。むかついたら考える前に「文句あるなら直接言えよ」って言っちゃったり、手が出たりするタイプでした。
ガキ大将。今ではちょっと考えられないですね。
というのも、私は昔からの友人には「侑大は昔から根っこの部分は変わってない」といわれることが多いのですが、それでも変わる部分はあるわけでして、クラスの中心になろうなんて今では絶対に思わないです。
そもそも、人間に対する諦観といいますか、所詮他人なわけですから、何でいちいち仲良くない人も含めた全員のために何かしないといけないんだろうって思いが今は先行してしまいます。かかわりのある仲いいグループだけであればもちろん、中心的存在を担うことはOKですが、興味ない人もいるコミュニティの中心というのはちょっと……。また、むかつくことがあったとしても、相手とやりとりすることに何のメリットもない場合はいちいち「文句あるなら直接言えよ」なんて絶対に言いません。時間の無駄遣いだと思います。
これが大人になったということなのでしょうか……。
他方、小学校高学年からは市進学院という塾に通っていました。塾自体はもともと行きたいわけではなかったのですが、親の勧めもあって通い始めたんですね。今思うと、幼少期に勉強する癖がついたから高校受験以降の受験を乗り越えれたのかなあと思います。そういう意味では、親の勧めに従って本当によかった。塾での思い出といえば、模試です。圧倒的に模試の記憶が残っています(むしろそれ以外は、塾の中で成田駅前に店を構える『ひっぱりだこ』のたこ焼きを食べて怒られたことくらいしか覚えていない)。というのも、塾が実施する模試の結果が返ってくると、同時に、塾内の壁に実名で模試の順位が公表されるんですね。これが超悔しい。周りにすっごい頭がいい奴がたくさんいたので、クラス内でさえ全然1位が取れない。これがねえ、負けず嫌い精神に火をつけるんですよ。絶対に次は負けない! みたいな。この実名順位公表制度があったからこそ、この頃の勉強を継続できたと思っています。
あとはあれか、幼稚園を卒業した後に親の仕事の関係で小学校1年生~4年生半ばまでイギリスに行くこととなりました。イギリスの記憶もあんまりないのですが、私は現地校ではなくロンドンの日本人学校に行きました。なので、帰国子女とは名ばかり、私は英語が全然しゃべれません。イギリスでの生活については、家の近くに日本のお魚屋さんがありましたし、ハイパーヨーヨーやミニ四駆、ビーダマンが流行った時も売ってる店があったのでそこで買えましたし、サッカーも日本人が集まるクラブと外国人だけのクラブをかけ持ちしながら継続していましたし、日本にいるときとさほど変わらない生活を送っていたような気がします。
そして日本に小学4年生で帰国するわけですが、親の仕事の関係で関西に行かないといけないみたいな話になったんですよね。その時は猛反対しました。だって、やっと地元に帰ってきたのにまた離れ離れになるんですよ。それがすごい嫌だった。結局、父だけが関西に単身赴任する形でまとまり、私は母とお嬢の3人で成田にとどまることになりました。
そうして、小学6年までは成田で過ごし、地元の小学校を卒業して成田市の公立中学へ進学することになります。
■パヤンキーとサッカーと高校受験
地元の公立中学校に入学。うちの中学は灰色の学ランだったのですが、それがくそダサかった(笑)。学ラン=黒色のイメージだったので、灰色の学ランはダサいなぁと思っていました。とまあ、文句たらたらではありましたが、仕方ないものは仕方がない。話を戻して、私は当然サッカー部に入部。公立中学校なので、小学校の同級生や1個上の先輩たちはみな知っています。でも、2個上の先輩たちは全く知らない。そんな中、サッカー部に入ったわけですが、2個上の先輩にむっちゃいかつい先輩がいたんですね。身長はそこまで大きくないのですが、とにかくガタイが半端なく、ロン毛(途中から0ミリ坊主になったから更に恐ろしくなった)、まゆ毛全剃り、目つきがシャープなナイフのように鋭い先輩。もう、想像しただけで……。
なんと、その先輩に気に入られてしまったのです。というのも、サッカー部の練習中にボールを思いっきり蹴ったら遠くにいたその先輩の顔面に当たってしまったんですね。
私:「あ、これ、終わったね。うん、終わったね(以下、エンドレスリピート)」
予想通り、ぶちぎれた先輩がどんどん近づいてきてメンチ切ってくるんです。いやあ、中学3年生といえども中学1年生からすればすごい大きく見えるじゃないですか。まじで〇られると思い、目を見ながら、むっちゃ謝ったんですね。
「お前、なんか気に入ったわ。よろしくな」
ん? ん? なぜ?
よくわからなかったんですが、すごい気にいられるようになりました。これ、推測ですが、ヤンキーって実は優しい人が多いと思うんですよね。人間的に素直というか、直感で生きているというか。だから、あの時の先輩はしっかり謝った私を見て、それはそれでまっすぐな奴だと思ったのでしょう。そして、気に入られてしまった。
そこからですね。徐々にではありますが、2個上の先輩や1個上のヤンキーの先輩をマネして眉毛を細くし始めたり、ファッションをヤンキー風にしたり、いろいろし始めました。ドッグタウンっていう龍や虎のイラストが刺繍されているダボダボの服を扱うブランドがあって、私は上下白のコーデでよく街を歩いていました。友達にはガルフィーっていう犬の絵が書かれてる服を着ているやつもいたのかな。今思えば、筋肉のないひょろひょろ中学生が何イキってんだって話ですが、若気の至りですから仕方ありませんね。あ、ヤンキーマンガのクローズに出てくるようなイカツさは全くありません。ほんと、いなかっぺがイキってる姿を想像して頂ければと思います。先輩達は鑑別所に入ったりしていたマジもんのヤンキーだったのに対して、私はそれに憧れてた超半端なヤンキー、通称、パヤンキーでしたので、他校のむかつく奴と喧嘩したりといった生活を送っていたわけでは全くもってありません。ただイキっておりました。
そのせいもあってか、中学で付き合った最初の彼女は少しヤンキーが入った(もしこの本を読まれていて「ヤンキーじゃねえよ」と思われたらごめんなさい)女の子でした。類は友を呼ぶのですね。懐かしいなあ。当時はガラケーで私はdocomo、彼女はauだったのかな。着メロを浜崎あゆみやトランスのinfectedって曲におソロでしたりしてたっけ。結局、3か月くらいで別れてしまうのですが、チャリンコに二人乗りしながらデートしたり、青春していましたね。
他方、そんなパヤンキーみたいなことをやっていた中でも、中学3年生になったときはサッカー部のキャプテンを務めるなど、サッカーに全力を注いでいました。この頃もまだサッカー選手になりたいって本気で思っていましたからね。客観的に見れば有名でもない田舎の中学校でサッカーしている奴が何を言ってるんだと思うかもしれませんが、夢を抱いて目指すことは誰でもどのような境遇でも平等、田舎者の私はシッカリと幼稚園の頃に抱いたサッカー選手になるという夢をかなえるべく練習に明け暮れました。まあ、キャプテンとしては理想のキャプテンとは言えなかったかもしれません。最後の大会前なんて、同学年と練習中に喧嘩になり、カッとなって殴った結果、眼底骨折のけがを負わせてしまうという問題を起こし、迷惑をかけてしまいましたし。もちろん、父親と相手の家に謝罪訪問。今では反省しています。とはいっても、毎日の練習、休日の練習試合、大会。いずれもすごい楽しかったですね。特に覚えているのは最後の大会かな。私の先輩たちは地区予選を勝ち抜いて県大会に出場したんですが、私たちの代は地区予選で敗退したので県大会に出られなかったんですね。それはそれでとても悔しかったのですが、県大会の後に控えていた、中学校だけではなくクラブチームも交えた大会があって、それが思わぬ快進撃。クラブチームに何回か勝ち、なんと、当時の関東選抜に選ばれている選手が率いる中学校と対戦するまで勝ち抜けたんですね。これはもう勝つしかないよな! という最後の最後で一番高まる団結感。雨の中、試合開始。なんと3対3でPK戦へ突入。おおおお……でも、最後の最後にPK戦で負けてしまいました。この時は悔し涙を流しました。本当に最後なんだ、このメンバーで試合をするのが最後なんだって思うと、悲しいし悔しい気持ちが込み上げてきたことを覚えています。そうして、中学校におけるサッカー部生活は幕を下ろしました。
進路については、私は中学校の間も市進学院で引き続き勉強をしていたので、高校受験を当然の流れのごとくすることになりました。んで、ここで思ったんですね。どうせ受けるならてっぺん取りたいなって。現在、私はよく教え子にとっての「オンリーワンでナンバーワンになる」と言っているのですが、今思えば、昔から変わらないんだなと。そんなこんなで、開成高校と渋谷教育学園幕張高等学校と滑り止めの高校を受験することになりました。開成の校風とか、そういうのはどうでもよかったんです。
ただ、イチバンがよかった。
渋幕については、当時はサッカーが強くて頭も良くて校則がないってところに惹かれていたと記憶してます。校則ないし、髪の毛染めてピアスしてサッカー強いとか超最高じゃんみたいな。サッカーって、体育会系のイメージ(後程話すように、渋幕サッカー部は体育会系でした(笑))でしたが、そんな自由な校風の中でプロを目指せるとか、当時の私にとってはすごい魅力的でした。公立高校とかだと髪をちょっと染めるだけで先生がうるさいじゃないですか。がみがみうるさいのは嫌だなあって思っていたのですが、渋幕は自由。これは相当な魅力でした。
ところがどっこい、なんと、サッカー部は自由な校風の治外法権だったのです……(笑)。
染めれない、ピアスはつけれない、制服はちゃんと着てないだけで怒られる。
思ってたんとちゃうううううううう。
そう、理想は早々に砕かれたのです。
話を戻して、この頃の受験勉強の具体的な方法とかは全く記憶にないのですが、基本的に塾の先生がやれといったモノ、受けろといった授業、受けろといった模試は全部言われたとおりにやっていたと思います。特に自分で方法論を確立するわけではなく、ひたすら先生の言うことを聞くスタイルだったかな。正直、勉強の方法論なんてわからないじゃないですか。だから、受験のプロに全て委ねていました。でも、開成高校は余裕で落ちました。今でも覚えているのですが、完全に場の空気にのまれましたね。どういうことかというと、会場に着くじゃないですか。そしたらなんとハチマキをしてる人達がいるんですよ。んで、「絶対受かるぞ! 受かるぞ! 」みたいな掛け声も聞こえてくる。なんだよ、アニマル浜口かよ……みたいな。しかも、教室では超分厚くて文字が書き込まれてるノートをガチで見直しまくってる人達がたくさんいる……なぜかみんなアミノサプリ飲んでる……そんな状況に当時の私は正直ブルってしまいました。なんだよこれ、初めての経験だっ……みたいな。そうしてその場の空気に完全に飲まれた私は開成高校に落ち、他方、渋幕には一般入試で合格し、入学することができました。
■サッカーに明け暮れた高校1年~2年
そういうわけで、私は渋幕に入学したのですが、当時の渋幕はサッカー推薦で強い選手を集めていましたし、ブラジル人留学生をサッカー部に呼んでいたこともあり、とてもサッカーが強かったんですね。ガチの体育会系の部活だったと思います。上下関係も厳しい(もちろん、部活の枠を離れたら先輩たちはとても優しく面倒を見てくださいました)ですし、連帯責任で坊主にさせられることもあった。ここら辺の話は後ほどするとして、話を戻しましょう。そんな渋幕サッカー部は田中・マルクス・闘莉王選手を輩出していますし、1個上の先輩たちは、あと1勝すれば全国大会に出られるほどの強豪校だったんですね。
そんな渋幕に入学したのですが、入学前におもしろい事件が……。
というのも、サッカー部に入る気満々だった私は地元で一緒に渋幕に進学することになった友達(彼もサッカー部に入部)と入学前の3月に渋幕に電話して体験入部をさせてもらうことになったんです。今思えば、すごいやる気があったんだなと感心します。んで、体験入部に行くんですが、もちろん、中学サッカーとは比べ物にならないくらいハードワーク。サーキットといって、筋トレとランニングを混ぜたトレーニング(走る→懸垂→走る→腹筋→走る→腕立て→走る……を5~10周みたいな)を初めて経験したときは内臓が全部口から出るんじゃないかってくらい死にかけました。とまあ、最初から高校サッカーのハイレベルさを目の当たりにしたわけですが、なんと体験入部を数回経験したある日、部活が終わった後に当時の高校3年生の先輩に部室に呼び出しをくらいます。なんだろ? と思って部室に入ると、先輩方がむっちゃキレてたんです。ただ、当時は(正直、今もよくわかってない)キレさせてる理由が全くわからなかったんですが「てめえ生意気なんだよ」「サッカー部入るんじゃねえこら」とか言われまくったとうっすら覚えています。中学卒業したばかりの僕と筋肉ムキムキの高3の先輩では大人と子ども、むっちゃ迫力があって正直超ビビりました。でも、なんで怒られてるのか、何が生意気なのかがわからないから
「こいつら何なんだ、馬鹿なのか」
とも思っていました。結局、理不尽と思いながらも謝りまくって解放されたわけですが、では、石橋はサッカー部に入らなかったのか。
否、もちろん翌日も体験入部にいきました。翌日は誰よりも早くに部室に行った記憶があります。だって、意味わかんないことでキレられて(たぶん、自分では気付かぬところで礼儀や言葉遣い等が成っていなかったのだと思います)なんで俺がサッカー部辞めないとあかんねんって話じゃないですか。というわけで、結局サッカー部にはシッカリ入部することになりました。
そんなこんなで始まったサッカー部生活でしたが、体育会系故につらいところはありました。なんだろうなあ。一言でいえば、理不尽が存在することに対して難しさを感じていたんだろうと思います。なんといっても、優秀とはいえ頭の中が筋肉100%みたいな先輩もいましたので、例えば練習試合が終わって疲れや敗北結果にイライラしている先輩に「うるせえなあ話しかけんな」みたいに八つ当たりされたり。大人なんだから後輩に八つ当たりしてんじゃねえよと思いつつも、言い返すこともなく。
渋幕サッカー部では毎年夏合宿を行うのですが、その合宿先で試合中に先輩とコーナーキックを誰が蹴るか、どういう形で戦略を立てるかといった点で少し揉めたんですね。んで、特に仲直りすることもなく(というか、試合中のでき事ですからね。仲が悪くなった認識がなかったです)合宿から帰ってきたその日の夜かな? 先輩に馬乗りにされて殴られましたからね。先輩は喧嘩がめっちゃ強かったので勝てるわけもなく。でも、はっきり言って意味不明でした。なんで殴られてるんだろう、なんでこの人は俺を殴ってるんだろう。みたいな。まあ、結局その先輩とは普通に高校生活と大学生活(なんと、僕が大学に入ってから所属するサークルの部長だったのです)でお世話になったので遺恨とかそういうのは全くないのですが。とにかく、体育会系は大変だった。でも、あの経験があるからこそ、大概のことはつらいとも思わないですし、強靭なメンタルが培われたと思っていて、やはり、あの経験は必要だったと今は思えます。体育会系の部活の中でしごかれたからこそ、今こうやってポジティブシンキングについて語れる部分もあると思いますし。あとはあれか、世渡りが上手になったかな(笑)。内心「うざいな~こいつばっかみたい」って思うときに悟られないようにことを済ませるスキルであったり、誰を敵に回してはいけないかを察知するであったり、空気を読むべきタイミングを見計らうであったり、手を抜くところはとことん抜くであったり。世渡りに必要と思う能力を開花させることができたのも高校サッカーの体育会系で過ごした時間のおかげだと思います。
話を戻して、そんなこんなの部活生活ですが、今思い返すと楽しかったというよりは大変だったという気持ちの方が大きいかなあと思います。朝練、午後練、合宿等々。まあ、自分が怠惰で甘ちゃんなのが原因なのかもしれませんが、連帯責任でみんな坊主とか、合宿の白飯は大盛り2杯だったかな? 食べろとか、なんか、しょうもなって思いながらサッカーをしていた気がします。
もちろん、楽しい時もありました。練習試合で活躍できた時はうれしかったですし、部活仲間と一緒にサッカーショップに行ってスパイクを選んだり、フットサルをやったりしたことは楽しかったと思います。でも、不思議なことに、楽しかった具体的なエピソードより、つまらないとか不満を感じたエピソードの方が思い出しやすいんでしょうね。それだけ、プロになるとか、高校サッカーをやり切るというのは難しいことだったということであって、ただただ当時の私は弱かった。
次章で書きますが、結局、幼少期から続けてきた私のサッカー人生も、高校で幕を下ろすことになるのです。
ということで今回はここまで。
次回はサッカー部をやめてついにギャル男として輝いていく石橋をお送りいたします。また数日後に更新しますね。お楽しみに。
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