贈られた「手作りカルタ」で僕は僕を知る。~自己紹介編~
「午前中に届くように郵送したので受け取ってください」
そう言われて待機していた僕に届いたものは、自分を見つめるにはタイミングが良すぎる理由になるものだった。これを贈り物と言わずに通過出来そうもない。
北九州からの贈り物は、明らかに僕への贈り物だった。それは厄年を迎える僕の躍年への願いが込められていた。中でも目を奪われずにいられない箱があった。そこに描かれていた文字は、
かるTAWA。
かるTAWAという手作りカルタだった。
そのあまりの出来栄えに思わず優勝カップみたいに掲げてみたが、それは決してカルくなく想いが詰まった全くカルくないカルタだった。
僕の本名はTAWAという。
TAWAという名義はInstagramで使用していた名前になる。
使用していたという過去形が語るように、現在はInstagramは休止してnoteにて真摯に表現と向かい、純然たる下心を丸だしにして日々を過ごしている。最近はTwitterとこのアカウントを連動させる事に遂に成功した。
Instagramにて僕の企画する数々の悪ふざけに付き合ってくれた人達をTAWAWA~(タワワ~)と勝手に呼んでいる。そのタワワ~からいただいた遊び心満載の心のこもった贈り物に素直に心打たれた。
贈られて来たカルタを開いて並べてみた。
41枚になるカルタは、ちゃんと色分けされて読み手のカードも用意されていた。
これを1枚1枚読んでいてたら、自分を振り返る事が出来た。これは、僕の生きた証だと思った。
僕は家族にこのカルタを語る事にした。それは、僕にとって必然な事だった。手始めに僕は、このかるTAWAの参加資格を家族に問い質した。
「このかるTAWAの参加資格はTAWAだけだ。TAWAの資格がある本物のTAWAなら手を挙げろ」
一瞬で空気が緊張でひび割れそうになったが、長い沈黙のあと家族全員挙手をした。僕は一先ず全員本物のTAWAだった事に安心してカルタの説明に入った。
4ブロックに分けられるそれは、僕の自己紹介とでもいうべきショーだった。
昨年、僕はKONISHIKIの来日40周年記念イベントを僕の地元神奈川県伊勢原市にて企画し実行した。僕とKONISHIKIは約20年の付き合いになる。
僕はKONISHIKIの事務所で当時一番若いスタッフとしてマネージャー業務やプロモーション企画などをしたりしていた。自分たちの地元で自分たちの形でお祝いしたいと企画したこの企画のことは、多くのnoteやInstagramに於けるタワワ~達を巻き込んだ。ちなみに現在の僕は、湘南のイケメンサラリーマンである。
熱く語る僕の話を熱心に聞く素振りを見せながら、視線は一緒に同封されていたお土産のお菓子に向かっている家族に気付きながらも僕は話を続けた。
普段からバスケ関連の仕事の時は呼んで下さいとKONISHIKIにお願いし続けて20年。NBAジャパンツアーで日本に訪れて練習していたウィザーズとウォリアーズの練習を観戦していた事を家族に初めて話した。突然の報告に険悪な方向の空気に流れつつあったが、華麗にディフェンスして何とか食い止めた。
これもタワワ~からいただいた写真だが、KONISHIKIパーカーを着込み、颯爽と全国デビューしたTAWAにTAWA家族は、嫌悪感を隠す選択肢を放棄していたが、僕はめげずに付け加えた。
「いいかい?こうしてテレビに映った事実は、ほんの一秒かもしれない。だけどこれを画像で見るとどうだい?一秒は何時間、何日とでも切り取れるんだ。僕が君達に言いたいのは、時間の概念を飛び越えた世界を楽しめということだ」
雄弁に語る僕に、嫌悪感どころか怒りを滲ませていたが、僕は止まることを知らないので続けた。
僕は家族にInstagramをしていた事を告げた。Instagramでは、なかなか存在しない長文を打ち込み、女性を装ったり妖精になったりイケメンになっていたりした事を報告し、なぜかブロックされがちな暮らしだった事を伝えた。
「キモい。全部嘘じゃん。普通に迷惑系じゃん」
と、冷静を通り越し突き刺すような言葉の暴力に
「イケメンは本当だろ。見てみろよこの筋肉」
と必死になった姿を冷笑された。
そう。僕は筋トレをしながら読書をし、それを語る。いや騙る、日本の第一人者である。その中でも村上筋肉倶楽部に所属している事を報告した。
家での所有面積が少ない僕は、これ以上の搾取を望まないので、最後に僕の哲学を入れて盛り上げて終える事にした。
圧倒されるような名言と哲学が並ぶグループDに、家族は言葉を失ったようだった。僕は家族の緊張を解くように告げた。
「どうしても名言が溢れてしまうのは、しょうがない事なんだ。それはTAWAであるなら皆、背負はなければならないし、発信しなければならない。ここの名言はほんの一部だが、普段からTAWAに接している君達は生活それそのものが名言に体現されている事に気付いているだろう」
僕は感動している家族に深呼吸して言葉を紡いだ。
「それがTAWA。Say‼️」
と僕は家族に輪唱を誘った。
参加される事はなかった輪唱に少し動揺したが、隠すように平静を貫いた。
「あなたは先ず大事な事を忘れているわ。先ずしなければいけない事は、これを作ってくれたタワワ~に感謝することよ」
この世に生を受けて2桁に届くのがやっとのTAWAに、僕は冷静に諭された。
「確かに君の言う通りだ。かるTAWAを製作してくれたタワワ~に僕は感謝しなければならない」
僕はタワワ~にこのカルタの製作過程を聞いた。
①かるたワードを考える
②テンプレに打ち込む
③印刷して厚紙に貼る
④カッターで切る
これだけの事をしてくれて、僕は今後も何かを返していかなければいけない事に気付いた。
「君の言うことに何の反論も出来なかった。僕は感謝の代わりにこれからもTAWAとして書き続けようと思う」
僕は若いTAWAに感謝を伝えたが、若いTAWA達からの返事はまた別のものだった。
「私達は、TAWAを背負いたくない」
僕からすれば意外と言うより、当然の解答だった。それだけTAWAの重圧は重いのだ。
「だったら僕を越えて僕を納得させる違う道を選ぶしかない。それにはまず僕より本を読むべきだ」
僕は、僕を決して越える事を出来ない難題を突き付けた。僕はこの世の全ては文学に存在すると思っている。思想と歴史には語るべき文学という表現があると思っている。自分の表現を見つける事が命題だと思っている。
「TAWAにならなくて良いなら本を読むわ」
今まで聞いた事のない滑らかな口調のその言葉に、どこかに台本が無いか見渡したが、それは存在しなかった。
「ねぇ。あなたは、あなたの大それた目標を私達に語るのは勝手だわ。だけどあなた自身はTAWAを語る資格があるのかしら」
僕はまたも大人びた口調の、齢2桁に届くのがやっとのTAWAに確信をつかれて絶句した。
「その通りだ。僕もまだTAWAを語る資格に到達していない。まだ何も成し遂げていない」
1月に41歳を迎えた僕は、41枚のカルタの意味を知る。それは厄年から躍年へと願ってくれたタワワ~達の願いだ。
僕は、僕の41枚を捲る決心をした。
「決めたよ。僕もまだ子供のままみたいだ。しっかりしたTAWAを語れる大人になるまでTAWAは休憩する。それまで僕が語る僕の名前は」
コニシ 木の子(KONISHIKIの子)であることにする。
なんのはなしですか
「初めましてコニシ木の子です」
名乗った時にはカルタが始まっていた。
連載コラム「木の子のこの子」vol.19
著コニシ 木の子(山羊座O型)
自分に何が書けるか、何を求めているか、探している途中ですが、サポートいただいたお気持ちは、忘れずに活かしたいと思っています。