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HSS型HSPが坐禅によって救われた話

初めましての方がほとんどかと思いますので、簡単に自己紹介します。

自己紹介

山梨在住、愛猫半ノラしずく様と一緒に、MMKと言う名でロゴマークやパッケージデザインなどグラフィックデザインをしております、坂本 司と申します。もうすぐ48になります。

一見明るく外交的な人間だと思われがちで実際にそのような一面も持っていますが、タイトルにもあります通り、「HSS型HSP」という非常に振り幅の大きい両極性を兼ね備えており、それに気づかず数年前にうつ病になるまで、非常に生きづらさを感じる世の中を、何とか渡り歩いてきた人間です。

あれから色々ありましたが、今回は表題の件のお話をさせていただこうと思います。

HSS型HSPとは

2003年にアメリカから日本へ渡ってきていたHSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)という概念、日本では2019年ごろから「繊細さん」と認識され、だいぶ認知度が上がったので耳にしたことがあるかと思いますが(オススメはあっちゃんのYouTube大学)、特性としては身体の内外に対する刺激に対して非常に敏感で繊細な反応を示す、感受性の高い人たちに該当します。こちらは全人口の15〜20%ほど居るとされていますが、人類の1/5程度がこれに該当するとなると、結構多いなあという印象がありますね。

そのHSPの中でも30%ほど存在する、全人口の比率でいくと6%ほどの、少々厄介な「かくれ繊細さん」(=HSS型HSP、ハイ・センセーション・シーキング、新規刺激追求性)という特性に該当する人たちは、マイノリティで分かりづらく、なかなか周りに理解してもらえないため、深い内向性を生かし自分の中でさらに拗らせていくという困った特徴を抱えています。

自分の場合も多分に漏れず外交性と内向性、極端な善と悪、自分でも決着がつけられないこの両極を兼ね備えた特性を自覚できるようになるまでは、矛盾を納得できず、例えば「親の四角四面な教育のせいだ」などと見当違いなことを考えながら、見つからない答えを外へ外へ、探し求めて苦しみ続ける日々を生きてきました。

自分のイタい特性

とにかく、「考える」。
ひたすら考え、疲れるほど考えて妄想に妄想を重ね、やった気になってしまう。
出来ないことへの理論武装をして、脳内で何度もトライ&エラーをし、やる前に納得して諦めてしまったり。
自分が堀江貴文さんを尊敬しているのは真逆な性格だからで、彼は「考えない」、「すぐ行動」と、非常に理想的で"禅的"な考え方の持ち主だなあと感じます。

自分はリスクを怖がり何度も考えるくせに好奇心は異常に強く、未知の世界には飛び込みたくなってしまい、実行したりします。この矛盾・・・
その結果、非繊細さんの何倍も大変な思いをするんですが、最後は妄想力を上手く使って切り抜けたりしてしまいます。(切り抜けたことにする、とも言えます)

映画の弊害

それから加えて最近気づいたことがあります。
自分が何より「映画」が好きなのは、疑似体験をさせてくれるからだということに、こないだ初日初回で『君たちはどう生きるか』を劇場の暗闇で観ながら、ふと気づいてしまったんです。
映画は、HSS型HSPである自分が抱える2つの大きな欲望を満たしてくれていた、と・・・。

ひとつ目。
もちろんオタクな部分があるためどんな映画でもというわけにはいきませんが、映画は、自分の好奇心を存分に満たしてくれる。
HSPは、映像に対する没入感が半端じゃないです。
主人公の人生を、自分の人生と錯覚することができるほど、帰り道に混乱出来てしまうほど、夢に見てしまうほど、没入することができます。
「スーパーマン」公開当時、劇場帰りに自分も飛べると思ってビルから飛び降りて死んでしまったアメリカ人がいましたが、きっと彼はHSPだったんだろうと思います。(根拠のない憶測です笑)

ふたつ目。
「やり終えた」気にさせてくれる。
これが非常に厄介なところです。自分の代わりに人生の冒険・勉強を完結させてくれる。(と錯覚してしまう、です)
主人公の身に降りかかる困難を、自分の困難と錯覚し、シンクロし、一緒に考えて乗り越えたところまで自分の体験と錯覚できてしまうんです。なので、もうわかったリストに追加させていきます。
普通は自分で体験して、それをリストに追加していくんだと思いますが、自分の場合、映像で見たものもリアルに体感できてしまうので(もちろん錯覚です)、経験値として刻まれてしまい、数少ない本物の体験を持って記憶を補填していく、という構造になっていることに気づいてしまったんです。
さすがにこれに気づいた時には「自分病気やな・・・」「ヤバいヤツや・・・」「痛過ぎる・・・」と感じましたが、親に導かれたであろう理想の自分を前に押し出し、「本当のオレちゃうわ」と、見て見ぬふりをしてすり抜けてきました。

一般的なHSS型HSPの方々はどうか分かりませんが、自分の場合、このようなヤバめなケースがあったんです。大好きな映画だからこそ、ショックも大きく。。。
しかし当然ながら、映画のせいにしてはいけませんね。自分の性質ですから。

うつになって初めて真剣に自分を見つめる

明るく前向き・イケイケな自分が自分で、弱くナイーブな部分はバグみたいなものとして、見て見ぬふり、気づかないふりをしてスルーしてきました。
そのおかげで数年前、うつになりました。

そんなことになってはいけない、認めたくない、という感情が渦巻いて、この期間は非常に苦しみました。今思うと、この時はプライドというものがかなり高かったと思います。今ではほぼゼロですが笑

時間が経ち、自分を見つめ始めてようやく気づいたのは、なぜ「うつになんかなってはいけない、それで会社を休むなんてあってはならない」と思ったのか、この根っこの部分でした。

ここでまず先に自分を救ってくれたのは、アドラー心理学でした。

「これをしなさい」「これをしてはいけない」「常識を守りなさい」
「勉強しなさい」「大学に入りなさい」「安定した公務員(教師)になりなさい」
と、人一倍世間体を気にした親の教えが染み付き、逃れられなかった自分。
振り返るとこういうことにずっと違和感を持ち続けながら、時に反発したこともありますが反発仕切れなかったのは、きっとどこかで責任転嫁できるよう、敢えてその教えを十字架のように背負って(自ら選択して)生きてきたんだと思います。

「〜してはいけない」という強迫観念のようなもの、この根っこの部分というのは人の目(妄想)で、これを異常に気にしていました。
「うつだなんて言ったら、今までのように接してくれなくなるんじゃないか」「周りから人が離れていってしまうんじゃないか」「陰でバカにされるんじゃないか」「絶対笑われる」「これまで築いてきた(と思っていたもの)を全て失ってしまうんじゃないか」
その恐怖で何も出来ず、動けないでいました。その思いに支配されて、人と会ってもまともに感情を出したり普通の表情でいられないんじゃないか、と。このせいで何もできず、一歩も踏み出せない日々が続きました。

そんな時アドラーの"嫌われる勇気"にたどり着き、
「逃げずに、嫌われる勇気を持ちなさい」というメッセージを受け取りました。

「嫌われていいんだ」「周りにいい顔をしなくていいんだ」と腹落ちして涙し、40年以上肩に重くのし掛かっていた「しなければならない感情」が溶け落ちて、体重が半分くらい軽くなった感覚を今も鮮明に覚えています。

著書の内容はもうご存知かと思いますが、自分の好きなポイントを重視して要約すると、
・自分の課題と他者の課題を混同するな
・心理学には2:7:1の法則があり、どんな人間でも1割からは必ず嫌われるので、誰からも嫌われたくないというエゴは捨てて味方の2割を大事にしよう
・他者と比較することに意味はない(自分とだけ比較せよ)
・人生は自分で意味付けした主観世界

・「いま、ここ」にしか意味がない
という内容になります(だいぶ割愛してます)。

1割からは必ず嫌われる、
この事実にどれだけ救われたか分かりません。視界が鮮明になりました。
つい数年前まで、本当にこれが想像できなかった。全員から嫌われないためにはどうしたら良いか、そんな無理ゲーを胃が痛くなるまで考え、それても分からず、結果うつになっていたんです。
でももうこれは、完全に納得できました。完全に克服できたかどうかは、もっと人と関わるいろいろな活動を続けないと分からない部分はあるでしょうし、40年以上分の思考のクセみたいなものとしてまだまだ湧き上がってくることはあるかと思いますが、体験を通して、リハビリをしていきたいと思っています。

禅との出会い

ようやく本題に突入します笑

自分を見つめるという行為。
アドラー心理学のおかげで、それがどんなものか、入口は見えました。
ただ、ここでHSP特有の追求心が浮上します。
どうやって見つめれば良いのかよく分からない・・・・
ビジネス系のフレームワークは嫌いじゃないのでマインドマップなどを用いで自分の思いをどんどん書き出して行って視覚的に確認する、これを定期的に行っていましたが、どうにも確信的なところにたどり着いている気がせず、なんとなくスッキリした感じになってはいましたが、このくらいの感覚で堂々巡りをしていました。

それからしばらく間を空けて、ふと、本屋さんで「禅語」の本と出会います。

禅語・・・
なんだかありがたい感じがするけど、歴史もののようにちょっぴり古臭いイメージもあるし・・・でもスティーブ・ジョブス信者としてはちょっと気になる世界ではあって・・・というような、当時はこれくらいの感覚でしたがその気軽に読めそうな本が気になって立ち止まっていたので、とりあえず買ってみることにしました。

今思い返せば、これが始まりでした。
すごく優しくしたミーハーとも言える導入本なので(失礼ですね笑)さらっと読みましたが、それでもその言葉の向こう側に真髄のようなものが見え隠れしていたのに気づき、気になってしまってHSS型HSPの特性が発揮されてしまいます。自分なりの「真理」を追求したくなってしまったんです。

そもそも仏教って?

禅語、禅ってことで、これは仏教だよね?仏教って、ほとけ様を拝んで、南無阿弥陀仏とか唱えれば極楽浄土に行けますよ、っていう宗教じゃないの?
当時、ホントにこの程度の知識しかありませんでした。
しかし蓋を開くと、そこから達磨大師に出会い、道元禅師に出会い、実際に長井自然老師に出会い、井上貫道老師に出会って、お寺で毎日坐禅をすることになります。

自分は在家で坐禅をしているだけなので、仏教や禅宗についてここで詳しく取り上げることはせず実際の僧侶や研究家などの専門家に譲りますが、禅の教えが自分に対しどのような働きがあったか、ということだけ、書き記しておこうと思います。

結論から言いますと、完全に持論ですが、
自分にとって禅は、アドラーをはじめとする心理学や哲学を、完全補填してくれるものとなりました。

自己とは何か。自己を見つめるということはどういうことか。
どのように見つめれば良いか。
それができた暁には、どのようになるのか。

それまで、わかるようで分からなかったこの問いに、禅は全て答えてくれました。

100分de名著の番組で興味を持ち、意味もわからず暗記していた般若心経に、このヒントがしっかり隠されていたことも後に知ることになります。(これに関しては別立てで書き記すかもしれません)

げんにーびーぜっしんにー

って聞き覚えありません?
眼耳鼻舌身意
これらは皆、無である、と。
無の説明は難しいのでここでは省略させていただきますが、この眼耳鼻舌身意の「意」、これが今回のお話でのポイントになります。

自分の中で理想と本音の大いなるギャップに最大限苦しんでいた部分、
HSS型HSPであればほぼ確実に持ちえているこの両極性、これの謎が解けたんです。

HSS型HSPの特性を知った時、「崇高・博愛」な部分と「腹黒・邪悪」などの両極を持ち得るんだということは、頭では理解できていました。しかし振り返ると、自分の中でこの知識だけでは、まだまだ表面的だったんです。簡単には割り切れなかった。

その罪悪感のようなものと、湧いてしまうその感情を、どう取り扱えば良いのか。

これを、禅は、坐禅は、解いてくれました。

ひとの思考・考え

般若心経の「眼耳鼻舌身意」。
ひとは、この世に生まれてきて、誰に使い方を習うのでもなく、目を動かすことができて、ピントを合わせることができる。目の前に広がるものを、目を通して「見る」ことができる。
耳もそう。鼓膜を振動させる方法など知らずとも、周りに広がる音を、タイムラグ無しに「聞く」ことができる。
匂いもそう。匂いの嗅ぎ方を習わずとも、匂いを嗅ぐことができる。
舌も。どのように味覚を働かせるかを習わなくとも、味を感じることができる。
触覚もそう。生まれたばかりの時は触覚がないんだよね、なんてことは無く、これも習わずとも、触れる感覚がわかる。

これらは何となく、そりゃそうだ、と分かっていただけるかと思うんです。

目は横に。鼻は縦に。
日本曹洞宗の開祖、道元禅師はかつて修行のため中国へ渡り、苦労の末に正師を見つけ、悟りを開かれる。その時わかったことは、「目は横に、鼻は真っ直ぐ下に伸びている」ということでした。そして、経典も何も持たず、手ぶらで帰国された。あるがままのこの身が仏法であった、と。

仏教の開祖、お釈迦様は、29歳のとき家を出て超人的な力を求めて片足で数時間立ち続けたり、太陽を直接見続けたり断食を続けたりなどの苦行を続けたのち、あわや死にかけて諦め、かの有名な菩提樹の下で静かに坐禅をしていたときに、宵の明星を見て悟りました。「ものを見る目」の力は、苦行で手に入れたものではない。生まれたときから持っていた力。本当に尊いものは、外にはない。他ならぬ、自分自身の中に、すでにある。

ここまでは涙を流すほど納得し、この身体を授かったことに感謝していたんですが、そんな中でも、眼耳鼻舌身意の「意」が曲者でした。

老師の素晴らしいお話を聞いた後や、TikTokで心が洗われる良い話を聞いた後、感動する映画に出会った後などの数日間は心の穏やかな状態が続きますが、それをふと忘れた頃、思い出したかのように、良くない考えやワードが浮かんで来てしまう。
おかしいなあ、悟ったんじゃないかと思えるほど真理が腹落ちしたはずなのに、平然と良くない思考がポーンと出てきてしまう。

自分はこれを、「悪いことだ」と思っていたんです。
こんなこと思ってしまうなんて!まだまだ修行が足りない!何もわかっていない!ひたすら坐禅だ!!・・・のように。

けど、違ったんです。
国際坐禅道場安穏寺の住職、長井自然老師に教えていただきました。
「思いが湧いてしまうのは、目が見えることと同じ。人間が元々持っている性質。それをどうこうする必要がない。とらわれず、取り扱わなければいいだけ」

思考・考えに、実体はない。
なぜか。みんな違うから。目の前にある実体は同じでも、人によって見え方が違う。目の前の実体は変わらないのに、人それぞれ感じる味が違う。物を触った時の感情も違う。
感じ方に、「正しい」「間違い」など無いのだ。
正しい、間違いなどと区分けしているのは、人間の勝手な思考のみである、と。
真理、実体は、目の前にあるそれそのもののみ。本来は名前もない。
自分も身体もそう。あるがまま。今、ここにある、この身体の働きのみ。
それ以外に真実はない。

そのように、教えていただきました。
完全に、腹落しました。
ようやく、坐禅をしている意味が、わかりました。

社会生活をして人と関わり忙しくしていると、思考・考えに捉われがちで、それが全てになり、それに支配されがちです。
坐禅の時間は、それを強制的に断ち切り、本来のありようを感じるため、その働きだけを感じてどっぷり浸ります。
授かったこの身体、なんて有難いんだろう、と。
それだけで十分だ、と。

終わりに

だいぶ長くなってしまいましたが笑
以上が、坐禅によってHSS型HSPという厄介な特性を持った自分が完全に救われたというお話を圧縮してお届けしたものになります。
どこかに共通点があって、一人でも共感してもらえたり、救われるきっかけになったりしたら、最高に嬉しい限りです。

P.S.
ココナラでカウンセリングを始めました。興味ある方は覗いてみてくださいね。
それでは、また。



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