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舶来の人権思想で吉原を見る日本人

ちょっと前に東京上野で開催している大吉原展を観た。当時の吉原の人間模様が在り在りと伝わってくるリアリティがあったし、中でも喜多川歌麿によって描かれた巨大な浮世絵「吉原の花」は圧巻だった。ただ展示物の説明文に「現在では人権侵害で許されない」「二度とこの世に出現してはならない」「人権侵害を肯定する意図はありません」といった当たり前な文言が事あるごとに書いてあるのが気になった。

なぜそんな当たり前のことをいちいち繰り返し表記する必要があるかと言えば、開催前からこの展示会に対しある有名脳科学者が「性的搾取を肯定するのか」みたいに抗議していたという件がある。その件でポスターの題字がピンクからグレーに変更されたりもした。だがそんな事を言うなら斬り合いのある時代劇や合戦を描いた絵に対し、いちいち「殺人を肯定する意図はありません」と断りを入れなきゃならなくもなる。

そういうのは現代の価値観では肯定できないことを解った上で見ているわけで、それすらも否定するというなら「今」に繋がる歴史はほとんどすべて無かった事にしないといけなくなる。一見人権に敵った正しいことをしてるように見えるかもしれないが、当時は肯定されていた文化を今の価値観で断罪するキャンセルカルチャーは、過去は野蛮で「今」の価値観こそ至上だとする驕りであり、「今」の価値観が未来において「野蛮だ」と断罪される可能性を一切想定していない。

例えば脳科学者は現代における性風俗を人権侵害と非難したり風俗嬢を解放せよと普段から唱えている様子もなく、むしろ顧客側である可能性だってある。未来における価値観では現代当たり前にある性風俗も人権侵害になっているかもしれないのだから、今性風俗解放を唱えてない者が過去の時代の吉原だけ非難したって何の説得力もなく、過去を今の価値観だけで断罪するのは現代人の驕りでしかない。

それに吉原における遊女の文化には当時の貧困が背景にあったわけであり、客の側も農村の娘が親孝行のためにやっていることを知っているから彼女らに対し一定の敬意もあり、客と遊女が恋愛関係になったり身請けするようなことだって普通にあった。芸事を披露するための教養だって身につけていたし幕府も公認していたわけで、脳科学者が想像するような単純な奴隷制のようなものではない。

日本は歴史的に性に寛容な文化を持つからこそ、性に従事する女性に対する差別心が薄く、だからこそ今でもそうした女性が普通に社会で活躍できていたりもする。これが「汝姦淫するなかれ」で性に不寛容なキリスト教文化圏であればその感覚は理解されず、そうした女性は人権侵害の性奴隷という目で見られてしまう。要するに脳科学者は日本の歴史に基づかない、グローバルな欧米流人権感覚のフィルターから吉原を見ているに過ぎないのだ。



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