僧侶は世間知らず?(1) 「常識」「苦労」「世間」を定義する

僧侶の常識,人間としての常識

京都で学んでいたころ,「お坊さんは世間知らず」「社会に出て,苦労した方がいいよ」という話を同期や先輩から聞かせてもらいました。「世間」「常識」「苦労」といった日ごろ何気なく使っている言葉について,改めて考えてみたいと思います。
僧侶に求められている常識とは,①金銭感覚,②人とかかわるときの態度 だと私は考えています。

「常識」を定義する①金銭感覚

お布施=寺族の給料ではないことを再確認するべきではないでしょうか?ピンからキリまである声明,法話をし,有名アーティストのチケット代と変わらない金額をいただいていることの意味を考えなければなりません。世の中にはもっとしんどい思いをしてお金をいただいている人が大勢いらっしゃいます。どういう気持ちで包まれたお布施なのでしょうか?仏法やお寺がこれからも続いていってほしいという願いが込められているのではないでしょうか?それぞれ僧侶の置かれている環境は大きく異なりますが,無理のない範囲で勉学布教に励むことが必要と思います。

「常識」を定義する②人とかかわるときの態度


住職=会社の社長(?)と思っているような寺族もいるかもしれませんが,もともとお寺はその地域のご先祖の方々が建立し,護持してきたものであり(歴代宗主に関連する人物や,大名などがひとりで寄付をして建てたお寺など,特殊なケースもあります)寺族のものではありません。「住む職」と書いて住職であるように,寺族はご門徒の方々の大切なお寺を代表してお預かりしているだけです。僧侶の多くが境内地に住居(庫裏,くり)を構えて生活しているのはそのためです。「○○寺管理会社」という企業の社宅だと考えていただければわかりやすいと思います。ですから,寺族としての務めが果たせなくなったときは,お寺から出ていかなくてはなりません。寺院は,決して僧侶の私物ではありません。お寺を護持していく仕事を通していただくお給料と,ご門徒の方の丁寧な対応 (仏様の前,儀礼の場だからそうしているのであって僧侶が立派なのではない) で感覚が麻痺しているのではないでしょうか?

苦労を定義する,苦労することの意義

そもそも,苦労とはなんなのでしょうか?安い給料で長時間働かされることでしょうか?職場で心ない言葉をかけられ,人間関係に悩み苦しむことでしょうか?仏教の中には,滝にうたれたり,火のついた炭の上を裸足で歩いたり,護摩行をしたりといった,身体的,精神的にハードな修行が求められるご宗旨のものもございます。しかし,「苦労した方がいいよ」「世間知らず」という文脈では,仏教やお寺における苦労はカウントされないようです。

苦労を体験するとどうなるのでしょうか?僧侶の役割として,「他者の悩み,苦しみに寄り添う」ことがしばしば挙げられています。苦労を通して,同じような目に遭っている人の立場は理解できるようになるかもしれませんが,自分が経験したのと違うタイプの苦労に遭遇した場合どうなるのでしょうか?自分なりの苦労を知っているからといって,他人の苦に寄り添えるとは限りません。自分勝手なものの見方を押し付けて,他者にわかってもらえなさや,疎外感を抱かせることもありうるのではないでしょうか?「苦しみに寄り添う」のに苦の経験は必須ではないと強く申し上げておきたいと思います。

苦労が必ず求められるのなら,お医者さんはあらゆる病気にかからなければなりませんし,弁護士の先生は自分が個人的に裁判で訴えられた,訴訟を起こした経験がないと一人前ではないということになります。こうしたお仕事に求められているのは,「きわめて難しい試験に合格した後も,研鑽を重ね技能を向上させていく」ことではないでしょうか?苦労したからといって人間性や苦に寄り添うスキルが向上するとは思えません。苦労していない(と思われる)人に同じ苦労を要求する,あるいは,そうした経験がない人を見下すようになるといったことも考えられます。今目の前にない苦労を,無理に探しに行って経験する必要はないと私は考えます。

世間を定義する

「僧侶は世間知らず」というときの「世間」の範囲は「お寺以外の場所」であると考えられます。僧侶やお寺は,世間に含まれていないようです。「出家する」「出世間の教え」といわれるぐらいですから,当然でしょうか。

昨年,神戸市の小学校で,男性教諭が同僚からさまざまなハラスメントを受け,休職に追い詰められたことが問題になりました。この事件の後,インターネット上には「これだから教員は…」「学校しか知らない世間知らず」という批判があふれていました。不適切な行動をした人間がいたからといって,主語を大きくして教員全体を攻撃するのはやめるべきではないでしょうか?私の友人や先輩,後輩のなかにも教員になった方がいらっしゃいますが,常識がなくずれた人間とは思えません。どの分野にも,逸脱した,周りと合わせられない人間は一定数存在しますし,法に触れる行為をしてしまう者も現れるでしょう。そうした人が悪目立ちして,集団の評判が低下してしまうのも事実です。一方で,「不適切な人間ばかりではない」とひとくくりにせずに考えることも大切ではないでしょうか?

どうやら,学校の先生も「世間知らず」と考えられているようです(私は,大多数の先生はそうではないと考えています)。「社会人経験を○年積んでから先生になるべき!」という意見もみられますが,学校の先生は社会人にはあたらないのでしょうか?先生が学校に行くのは「仕事」だからです。児童生徒,学生の延長でないこと,立場が違うことを理解できていない主張だと感じます。
「世間知らず」というのは,「範囲を都合よく変え,自分の気に入らない対象を仲間外れにして攻撃できる言葉」ともいえるかもしれません。

まとめ

・僧侶に求められる常識
①金銭感覚,②人とかかわるときの態度
・僧侶に求められる(?)苦労
多くの場合,仏教やお寺以外での苦労を指す。苦労が必ずしもプラスに作用するとは限らない。他者に要求するものではない
・世間とは?
誰を「世間知らず」とみなすかによって世間の範囲は変わる

次回の(2)では,常識を身につける,世間を知るためにはどうすればよいかを考えてみたいと思います。最後までお読みいただき,ありがとうございました。

合掌

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