ホッパーと光
エドワード・ホッパーはアメリカの美術学校が合わずにパリに行ったという。
パリはちょうどキュビズムなどの運動が巻き起こっていたが、ホッパーはパリの街、橋や教会を描いていた。
パリは橋の下でさえ光にあふれていた、とホッパーは語っていたというけど、それはニューヨークのような電気に照らされた都市の光ではなく、街が人間と共に歩んで培ってきた人間くささと、夜の路地の暗さがあるからこそ引き立つ光のことだったのかもしれない。光だけだとドラゴンボールの精神と時の部屋みたいになる。あそこに色っぽさはあるのかという問題は面白いけど。暗がりがなければ光は効果しない。
アメリカに帰ってからもホッパーは夜の街や人間の垢が香ってきそうな風景を描いたが、当時のイケイケアメリカはそうしたものを評価しなかったという。国がイケイケで高層ビルを建てまくって摩天楼、首が壊れるまで上を向いている人がいるなか、まっすぐ自分のまえを見つめる人もいるし、少し目を落として地を思う人もいる。目線。
祖国のノリと自分のノリにおいて引き裂かれたホッパーは色っぽい。
ナイトホークスなど、そこに座る人々の大衆が香ってきそう。いいなあと思う。
ホッパーは190cmくらいあって、よく連れ立って歩いた妻は150cmくらいだったらしい。
画家も詩人も哲学者も、その身体に興味が向かってしまう。ヘミングウェイの丈夫そうな身体とか、ロートレックの身体、藤田嗣治の職人みたいな腕、とか。作家たちの身体性について情報はいつも作品をより面白くしてくれる。というより身体ありきでしか作品を見れないのかもしれない。どんな肉体を持った人間が作った作品なのかと気になるのは、最初に作品に惹かれないと起きないかもしれないけど。両輪か。少し無粋かもしれない。でも作品単体にだけ向き合うなんて現象はなかなか起きないし、鑑賞という点では常に起きていることかもしれない。
鑑賞というか「見る」ということにおいて身体がないのはストリートのグラフィティーとかはそうなるのかな。そこに作家性というか身体性はむしろアノニマスにされているわけだから。いずれにせよホッパーが190cmもある大男だったのは面白い。