mori

感性的なインスピレーションに従って、小説・詩を中心に創作を行っています。色、形、音、言…

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感性的なインスピレーションに従って、小説・詩を中心に創作を行っています。色、形、音、言葉、形式は何であれ、心のインスピレーションを大切にして生きることが、本当の自己認識につながると思います。感性のままに生きよう、と勇気を与えられる発信を心がけています。

最近の記事

チンアナゴ(イメージの日記3)

    • 小説とエッセイを書くことの違い

      はじめにここ数日、noteを更新している。 自分は今まであまり、思考を言語化するエッセイみたいなものを書いた経験がなかった。一定数の記事を書いている中で、「小説・詩を書くときと、エッセイを書くときで、頭の使い方は全然ちがうな」と感じるようになった。それがどんな違いなのか、また、小説などの表現をやる上で、あえてエッセイなども併せて書く利点がどこにあるのか、などを、今回の記事で書いてみようと思う。 エッセイの文章の特徴エッセイの文章は、いわば、考えていることそのもの、という感じ

      • 黄色い帽子の少年が笑う(イメージの日記2)

        • 気負わず、気ままに作ることを、所ジョージに学ぶ

          作る、という欲求 何かを作る、ということがしたい、と思っても、それを続けることは案外ハードルが高い。 「自分より遥かに上手い人がいるしな」 「こんなことやっても、仕事にも勉強にも足しにならないし」 「そもそも、ひどい自己満足だしな」 そう考えると、手が止まってしまう。 しかし、一方で、「作りたい」という欲求には何かがある。 これは、上記の、頭のなかの言葉になぞらえていうのであれば、 「別にヘタクソでも充足できる」し、 「なんの足しにもならなくても、それ自体をすることが

        チンアナゴ(イメージの日記3)

          Yの字etc(イメージの日記1)

          今朝は、文章的なイメージが少なかった。 Yの字は鳥居っぽさを感じる。 細胞もそれにつながっていて、どこかお祭り感がある。

          Yの字etc(イメージの日記1)

          [創作論メモ]小さな魚をあつめる

          いま書いている断片的な小説集の位置づけについて、友人のひとりから下記の質問を受けたので、この機会に創作への現状のスタンスを言語化しておきます。これは、小説・詩を中心にした話ですが、同様の考えは音楽にもあてはまります。 質問: ・この作品は、一話一話、詩として完結しているのか? ・それとも、これらを元に、長い作品をつくるつもりなのか? ・あるいは、このまま断片を並べていくつもりなのか? 結論だけ先にいうと、答えはどの質問に対してもYesです。その理由を説明します。 ※小説

          [創作論メモ]小さな魚をあつめる

          作品は、赤ん坊と似ている。

          作品は、赤ん坊と似ている。赤ん坊は無垢に産まれてくる。赤ん坊は目的を知らない。ただそこにいるだけだ。盲目的であるとも言える。必死に母乳を求め、泣き、ひたすら眠る。そこには確かな充実がある。過去を振り返るということがない。昨日も明日もなく、ただおぼろげな記憶があるだけだ。その記憶は幸福であり、不安でもあるだろう。すべては曖昧に溶けあって、それでいて極めてはっきりしている。 作品をつくる日々を送ると、明日もやっていこう、と自然と思える。そう考えるともなしに。ただ日が昇るように。波

          作品は、赤ん坊と似ている。

          私のスピリチュアリズム

          時々、自分はシャーマンなのではないか、と思う。自分は特定の宗教に入っているわけではないし、信仰を持ったこともない。 興味はあって、関連するテキストは色々と読んでいる。 しかし、〇〇教の信者である、ということはない。 一方、自分のことを、非常に宗教的な傾向のある人間だ、と思うことが多くある。宗教的、という言い方は正しくないかもしれない。 スピリチュアル、霊性主義的、とでも言うべきだろうか。 いわゆるパワースポットを巡ったりするスピリチュアルとは違う。 日常生活を送っているふ

          私のスピリチュアリズム

          いい文章は「説明する」のではなく、「見せる」

          なぜか惹かれる文章なぜか惹かれる文章がある。 普段はただ、「いいな」と思っているだけで、それについて深くは考えない。 でも、せっかくこうして物を書くのなら、いいと思うものを、もう少し言語化してみようかな、と思った。 もう半年以上、『文学ラジオ』というのを継続的にやっていて、 ここでも色んな小説についての思考を言語化している。 改めてそこで話していたことを思い出すと、その瞬間は思いついて言っているだけのことも、 妙に記憶に残っている内容がある。 これは自分にとっても発見

          いい文章は「説明する」のではなく、「見せる」

          表現したい、という欲求とは何か?

          「表現したい」と思ったことがない。長い間、こういうブログのようなものを書くのに抵抗があった。 最近、少し思うところがあって、 ①頭に浮かぶことを文に起こしてみる。 と言うことを続けていた。 そして、それを妻と友人の2人に送り続けていた。 そんな中で、さらに、 ②せっかく書くなら、ネットにも出す。出せるように書く。 という考えが出てきた。 これをすることに何の意味があるのか? それはわからない。 むしろ考えないようにしている。 やってみたい、と思うから、やってみ

          表現したい、という欲求とは何か?

          空を眺めるだけの仕事がしたい、と彼女は言った。

          「空を眺めるだけの仕事がしたい」 「どんなことでも仕事になるとしたら、何を仕事にしたいですか?」 そんな質問があって、妻と散歩しながら話しているとき、彼女が答えたことは、 「それなら、ただ空を眺めているだけの仕事がしたい」 ということだった。 何となく聞き流していたけど、色々聞いていると、どうも本当に「空を眺める」のが子供の頃から好きだったらしい。 しかし、最近はあまり空を眺めるようなこともしていない、と。 なぜ? 「時間のムダだと思ってしまうし、なんか虚しくな

          空を眺めるだけの仕事がしたい、と彼女は言った。