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私のスピリチュアリズム

時々、自分はシャーマンなのではないか、と思う。

自分は特定の宗教に入っているわけではないし、信仰を持ったこともない。
興味はあって、関連するテキストは色々と読んでいる。
しかし、〇〇教の信者である、ということはない。

一方、自分のことを、非常に宗教的な傾向のある人間だ、と思うことが多くある。宗教的、という言い方は正しくないかもしれない。
スピリチュアル、霊性主義的、とでも言うべきだろうか。

いわゆるパワースポットを巡ったりするスピリチュアルとは違う。
日常生活を送っているふとした瞬間に、何か神聖なもの、神秘的なもの、言語にしがたいもの、啓示的なものを感じ、
それが自分が生きる上で重要な何者かだ、と考えてきた、ということだ。

これはものすごく主観的な経験なので、口にするのが馬鹿馬鹿しいようなところもある。しかし、自分が表現ということにこだわるのは、こうした、知性では割り切れない、感性・霊性的な領域での思考・感覚を、何らかの仕方で扱い、深めていく技術を持ちたいからだ。だから、こうしたことについて語ることも、避けては通れない。

いつ哲学に興味を持ったか?

それが正しい記憶なのかわからない。後から作り変えてしまっているのかもしれないが、自分が哲学科の出身だと言い、話の流れで、いつそうした哲学的なテーマに関心を持つようになったか、を話すとき、
自分がいつも最初に思い浮かべるのは、「薄暗い空の下のひと気のない保育園の建物」だ。それは自分が通っていた保育園で、屋根は水色で、南向きを向いてコの字状になった建物だった。春になるといつも燕が巣を作っていたのを覚えている。
本当に子供の頃の自分がそんなことを考えていたのか、と思うのだが、この保育園のビジョンは、おそらく、自分が夢の中で見た保育園なのだ。
そこには誰も人がいなくてひっそりしており、空は薄曇りで、もうすぐ雨が降りそうだ。情景としては、それ以上でも以下でもない。ひと気のない保育園。

そんなビジョンを思う浮かべながら、こんなことを考えていた。

…なぜ、人は夢が夢とわかるのだろう。夢の中にいるときは、夢がとてもリアルで、その中で起こることを本気で捉えている。夢が夢だとわかるのは、それが覚めるからだ。だから、覚めない夢の中にいれば、夢が夢だとわからない。しかし、こうやって夢の中にも保育園があるなら、現実の保育園も夢でないとは限らない。

哲学的な考察としては、これはありふれたもの、ごく基本的なテーマだと思う。自分はこの問題を、その後、理論的に突きつめていきたい、とは思わなかった。だから、テーマとしての関心は強く持っていても、哲学を自分の方法としては選ばなかった、ということなのだろう。

自分の場合は、一つの哲学的考察に、こうした象徴的イメージがはりついて離れない。自分にとってより重要な問題は、「夢と現実の違いは何か」ではなく、「薄曇りの空の下の保育園の像」なのだ。
そのイメージが含むところの意味を知りたい。より深く感覚したい。これは芸術のテーマ、単に美的な領域のテーマだと言い切ることができないのは、
こうしたモチーフが自分にとって、「人はなぜ生きるのか?」「この世界は何か?」というテーマと結びついているからだ。
これは、宗教が歴史的に扱ってきたテーマと、通ずるところがある。

散歩道での感動

いわゆる変性意識状態というのか、なぜか一定以上の場所移動を伴うときに、強力な神秘的感情を経験することがある。
数えたことはないが、頻度でいえば月に1~2回くらいのものだろうか。基本的には、こうした感覚は、思考や感覚に基づいたものではなく、まず単なる感動的な感覚、としてやってくる。

感動的、というのは、変な言葉だと思う。でも、実際には全くこの通りなのだ。誰しも、芸術作品に触れたときに、鳥肌が立つ感動を覚えたことはあると思う。これは、物によっては、自分の周辺世界が震撼するような感覚であり、芸術の妙味だと言えるだろう。

散歩中に自分を訪れる感動は、こうした感動の感覚を抽象的にして、数倍に高めたようなものだ。
実際、意味もなく感動して、涙がぽろぽろ零れてくることもある。
悲しくもないのに、目から涙が出て、感動しながら歩いている。まるで変質者みたいだな、と思うのだけど、実際、こういうことがしばしばある。

散歩道はこんな感動の定番スポットだが、実は電車の中もそれと似たような傾向がある。
以前、家の鍵を道でなくして、遠くの警察署まで取りに行った帰り道、地下鉄の緑色のシートの上で、強力な感情に襲われて、涙が止まらなくなった。
鍵を届けてくれた人の好意に感激したから、というわけではないようだ。もちろん、こうした感情は、自分の人間としての悩みにも関わりがないわけではない。

すべては心のあらわれである、という直覚

こうした感覚は、何らかの思考や感覚が先にあって、それによってもたらされた心の動き、としての感動とは、少し違っているように思う。

多くの場合、自分がこの状態に先に入ってから、色々な思考や感覚が、自動的に自分に流れ込んでくる、という感覚になる。

その時によく生じてくる思考は、下記のようなものであることが多い。

・すべては心のあらわれだ。
・心のどこか、深部のようなところから、この世界にあらわれる、すべてのものは生成してくる。
・存在するものは、儚く、形があるようでない。(散っていく葉のひとつひとつを、誰も記憶に留めないように、形あるものは、形を失う)
・しかし、だからこそ、すべては祝福されている。夏の木のように存在は旺盛に生い茂る。
・すべての人間は神である。
・すべての生ある存在は神である。
・すべての風、無生物は神である。
・心とは神である。
・私がそれを通じて世界を見るこの心は神の心である。
・だから私は神である。
・そのため、本当には私は存在しない。(世界と全く同じものであり、そこには見る・見られる、聞く・聞かれる、といった関係が存在しない)

これは仏教をはじめとした、いろいろな神秘思想のブレンドなのかもしれない。しかし、確かなのは、自分がその瞬間に、そのように感じている、ということだ。また、こうした感覚は、自分にとっては何かの結論を導くものではなく、むしろ、ある探究へと自分を導くものであるように感じている。

主体とは何か?

昔、ニーチェをよく読んだ。卒論もニーチェで書いたが、全くまとめられず、ぐちゃぐちゃなものを提出することになってしまった。これはトラウマだ。

今はほとんど読み返していないから、非常に不正確な語りになってしまうかもしれないが、自分がニーチェにおいて関心を持っていたのは、ニーチェが人の思考や意識の存立基盤そのものへの懐疑を語っていたからだ。

これもまた、自己流の哲学に過ぎないのだが、
「人はなぜ、ある思考を自分の思考として抱くのか? また、そんなことは可能なのか」ということを、よく考えていた。

例えばカントにおいては、思考は主体性の能力に分類され、感覚は受動性の能力に分類される。五感における感覚は、それがどのような出力になるかは外部からの刺激に依存しており、人間の意志によってそれを変更できるわけではない。
一方、思考の領域に属することは、外的世界の状況に依存することなく、主体の意志によって変化させていくことができる。

正しいかはわからないが、自分はそう解釈してカントを読んでいた。

このように考えることは、面白く感じる反面、下記のような疑問が生まれてくる。

…自分が自分の意志によって、何かを思考する、ということが、果たしてあり得るのだろうか。我々は、あることを「考えよう」、と意志するから考えるのではない。あらゆる考えは、どこかから「浮かんでくる」。それがどれほど論理的に見える思考だったとしても、そうした思考が生じてくる瞬間を、跡づけることはできない。だから、思考もまた、外部から流れ込んでくるものなのではないか?

これが哲学の議論として成立しているのかは、わからない。どちらかと言えば、自分の体感を反映した記述、と言った方がいいだろう。
私は、自分の思考、自分の記憶、自分の意志、における、自分、とは何か? を問題にしたいと思っている。
自分とは私ではない。神といえばそれに近いかもしれないが、多分それはあまりにも大雑把な表現なのだろう。

作りたい作品

いずれにしても、上記のようなスピリチュアリズムの感性が、自分が創作において、また、あらゆる人生の探究において、中心的なテーマとして扱って行きたいものだ。
上記のような直覚を得るだけでは、何らかの問題を根本的に捉えたことにはならない。これらはひとつひとつのモチーフではある。これからの問題は、いかにこうした象徴をつなげ、感性的な世界により深く潜っていけるか、ということだと考えている。

一つ参考にしたいのは、デヴィッド・リンチがよく語っている、「Big Fishを捕まえる」、という考え方だ。この理論を要約すると、下記のようになる。

アイデアとは、ひとつひとつが小さな魚のようなものだ。そうした魚を捕らえていくと、やがてそれに引き寄せられるようにして、より大きな魚があらわれる。魚を連れてくる餌となるのは、アイデアを得ようとする欲求だ。

私は、理論的考察によるのではなく、あくまでもアイデアがアイデアを引き寄せ、その象徴的な相関関係がより大きな象徴を生み出す、という力学に注目したいと思っている。これは、知性的な探究である面も持ちつつ、本質的な部分においては、むしろ感性的・霊性的な探究であると言うべきだろう。

デヴィッド・リンチは、下記のようにも語っている。

創作においては、この世界とは別の世界がどこかに存在するように考える。アイデアとは、こうした別の世界から、こちらの世界に向けて移ってくる断片なのだ。だから、アイデアはひとつでは形をなさない。複数のアイデアをどんどんこちらへと引き寄せていくと、やがて、別世界がこちらへ再現される。

こういうことはあり得るだろうか? と思う。
とにかく、試してみる。それだけの価値は、きっとある。
そのように信じることが、私のスピリチュアリズムです。

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